2018年04月30日

総社夏越しの輪ぬけ神事2018

播磨国内の神様すべてを祀る播磨国総社で「夏越しの輪ぬけ神事」が執り行われます。30日午後6時から、半年の間に犯した罪や穢れを祓う水無月大祓式があります。茅(ちがや)には、魔除けや災難除けの効果があるとされ、無病息災などを祈りながら、直径約3mの茅の輪を左右左と3回くぐり抜けます。社頭では玄関先に吊るす「茅の輪守」が授与されます。
所在地:〒670-0015兵庫県姫路市総社本町190
開催期間:2018年6月30日〜7月1日水無月大祓式/6月30日18:00〜
交通アクセス:JR神戸線「姫路駅」中央口から北東へ徒歩15分もしくは神姫バス「姫路郵便局前」・「市民会館前」下車
料金:境内散策自由
問合せ先:播磨国総社079-224-1111



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石切劔箭神社夏越大祓式2018

日本に古代より伝わる夏越大祓式が石切劔箭神社で執り行われます。人が日々の生活の中で知らず知らずのうちに犯した罪や穢れを、形代(かたしろ)に移して祓い除きます。本殿正面に設けられた大きな茅輪を、神職に続き一般参拝者もくぐり抜け、罪や穢れを祓い清めます。
所在地:〒579-8011大阪府東大阪市東石切町1-1-1
開催期間:2018年6月30日15:00〜
交通アクセス:近鉄けいはんな線「新石切駅」から徒歩7分、または近鉄奈良線「石切駅」から徒歩15分
主催:石切劔箭神社
料金:形代(かたしろ)は6月1日より授与(初穂料が必要)
問合せ先:石切劔箭神社072-982-3621




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水無月大祓式2018

半年間の罪や穢れを祓い清める儀式が、住吉大社の正面幸寿門前で執り行われます。神職からお祓いの道具となる「切麻(きりぬさ)」をいただき、悪疫退散、除災招福を願いながら心身を清めます。
所在地:〒558-0045大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
開催期間:2018年6月30日15:00〜
開催場所:住吉大社正面幸寿門前
交通アクセス:阪堺電気軌道阪堺線「住吉駅」もしくは「住吉鳥居前駅」からすぐ、または南海本線「住吉大社駅」から徒歩3分
主催:住吉大社
料金:参加費無料
問合せ先:住吉大社06-6672-0753




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西宮神社大祓式2018

西宮神社の大祓式は6月と12月の年2回行われ、夏に行われるものを夏越大祓と言います。半年間のうちに知らず知らずに犯した罪と身に付いた穢れを祓い、次の半年間の無病息災を祈願して茅輪をくぐります。
所在地:〒662-0974兵庫県西宮市社家町1-17
開催期間:2018年6月30日16:00〜
開催場所:えびす宮総本社西宮神社
交通アクセス:阪神「西宮駅」から徒歩5分、またはJR神戸線「さくら夙川駅」から徒歩10分、またはJR神戸線「西宮駅」南出口から南西へ徒歩20分
主催:西宮神社
料金:見学無料
問合せ先:西宮神社0798-33-0321



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蛍火の茶会2018

下鴨神社で、毎年6月上旬の初夏の夕暮れに雅な「蛍火の茶会」が行われます。楼門前には午後1時より「糺の森納涼市」が立ち、午後5時からは橋殿、細殿(ともに重要文化財)にて茶席が催されます。午後6時頃には神服殿(重要文化財)において、十二単の着付けと王朝舞や箏曲の演奏が行われるほか、午後8時頃には約600匹の蛍が大籠より御手洗川に放たれます。
所在地:〒606-0807京都府京都市左京区下鴨泉川町59
開催期間:2018年6月9日
交通アクセス:京阪「出町柳駅」から徒歩10分、またはJR「京都駅」もしくは地下鉄烏丸線「北大路駅」から市バス「下鴨神社前」すぐ
料金:見学無料
問合せ先:下鴨神社075-781-0010



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大幣神事2018

病魔退散と五穀豊穣を祈願する「大幣神事」が県神社で執り行われます。大幣殿で祝詞が上げられ、長さ6mの大幣が巡行し、この大幣に疫災が移されます。巡行は、猿田彦、裃供奉、カザシ、大幣、子供供奉、神官、杓鉾、馬神人と続きます。馬に乗った神人が、一之板を4往復、馬駆けし、最後に大幣を宇治川に落とし、災いは大幣とともに流されます。
所在地:〒611-0021京都府宇治市宇治蓮華72
開催期間:2018年6月8日10:00〜12:00
交通アクセス:JR奈良線「宇治駅」から南東へ徒歩15分
主催:県神社
問合せ先:県神社0774-21-3014



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大幣神事2018

病魔退散と五穀豊穣を祈願する「大幣神事」が県神社で執り行われます。大幣殿で祝詞が上げられ、長さ6mの大幣が巡行し、この大幣に疫災が移されます。巡行は、猿田彦、裃供奉、カザシ、大幣、子供供奉、神官、杓鉾、馬神人と続きます。馬に乗った神人が、一之板を4往復、馬駆けし、最後に大幣を宇治川に落とし、災いは大幣とともに流されます。
所在地:〒611-0021京都府宇治市宇治蓮華72
開催期間:2018年6月8日10:00〜12:00
交通アクセス:JR奈良線「宇治駅」から南東へ徒歩15分
主催:県神社
問合せ先:県神社0774-21-3014



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竹伐り会式2018

峯延上人が修行中に大蛇に襲われた際、真言の秘法で退治したとされる故事にちなむ行事が、鞍馬寺で執り行われます。まず、黒の素絹と五条袈裟を弁慶被りにした鞍馬法師が、長い青竹を伐って条件を揃える「竹ならし」をします。修法の後、竹ならしをした青竹を一節飛ばしに5回伐り落とす、迫力のある「竹伐りの儀」が行われます。修法の間には舞楽が奉納されます。
所在地:〒601-1111京都府京都市左京区鞍馬本町1074
開催期間:2018年6月20日14:00〜15:00頃
開催場所:鞍馬寺本殿金堂
交通アクセス:仁王門まで/叡山電車「鞍馬駅」から徒歩5分
主催:鞍馬寺
料金:拝観有料(愛山費300円)※竹伐り会式参列には料金はかかりません。
問合せ先:鞍馬寺075-741-2003




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三千院のあじさい2018

市指定名勝庭園の「有清園」や「聚碧園」などがある三千院のあじさい苑が見頃を迎えます。ホシアジサイやヤマアジサイをはじめ、さまざまな種類の約1000株以上が、華やかに咲き誇ります。期間中は、チャリティ墨蹟展も開催されます。
所在地:〒601-1242京都府京都市左京区大原来迎院町540
開催期間:2018年6月16日〜7月16日
開催場所:三千院門あじさい苑
交通アクセス:地下鉄烏丸線「国際会館駅」から京都バス「大原」〜徒歩10分、またはJR「京都駅」から京都バス「大原」〜徒歩10分
料金:拝観有料
問合せ先:三千院075-744-2531



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三室戸寺の蓮2018

三室戸寺本堂前の、250鉢の色とりどりの蓮が咲き誇ります。珍種の蓮「大洒錦」、有名な大賀ハス、古代バス、青円寺ハス、陽山紅、ミセススローカムなど、100種が例年6月下旬から8月上旬にかけて次々と咲き、さながらその光景は極楽浄土のようで「蓮の寺」とも言われます。
所在地:〒611-0013京都府宇治市菟道滋賀谷21
開催期間:2018年6月下旬〜8月上旬拝観時間/8:30〜16:00
交通アクセス:京阪「三室戸駅」から徒歩15分、またはJR奈良線「宇治駅」から徒歩30分
料金:拝観料/大人500円、小人300円
問合せ先:三室戸寺0774-21-2067



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八坂神社例祭2018

御祭神ゆかりの日に、八坂神社で例祭が執り行われます。弥栄雅楽会による「東遊」の神楽奉奏があるほか、午後3時からの「献詠披講式」では、向陽会員による綾小路流朗詠の披講奉仕が行われます。
所在地:〒605-0073京都府京都市東山区祇園町
開催期間:2018年6月15日例祭(大祭)/10:00〜、献詠披講式/15:00〜
交通アクセス:京阪「祇園四条駅」から徒歩7分、または地下鉄東西線「東山駅」から徒歩10分
問合せ先:八坂神社075-561-6155



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姫路ゆかたまつり2018

姫路に初夏の訪れを告げる「姫路ゆかたまつり」が今年も開催されます。走馬灯を手にした子どもたちや、姫路お城の女王によるゆかたパレード、商店街の催し物などが行われます。ゆかた姿であれば、姫路城およびその周辺施設の入場料が無料となるほか、神姫バス運賃が半額となるなどの特典があります。ゆかたを着て、歴史ある城下町、姫路の風流なそぞろ歩きが楽しめます。
所在地:〒670-0903兵庫県姫路市立町
開催期間:2018年6月22日〜24日
開催場所:長壁神社、城南公園、商店街周辺
交通アクセス:JR神戸線「姫路駅」から徒歩5分
問合せ先:姫路ゆかたまつり振興協議会079-287-3652




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矢田寺あじさい園開園2018

矢田寺の2万5000平方mの境内には、紫陽花庭園や見本園があり、例年6月上旬から7月上旬まで、約60種1万株のあじさいの見頃にあわせて開園されます。6月1日から30日には、本堂内陣と地蔵菩薩立像および重文の仏像などを拝観できる「本堂特別拝観」が行われるほか、堂内の閻魔大王並びに十王像などが拝観できる「閻魔堂特別開扉」も実施されます(入堂はできません)。6月10日から下旬まで茶席が開放され、裏千家流と宗偏流によるおうすも楽しめます(有料)。※JR大和路線「法隆寺駅」から「矢田寺前」までの臨時バス運行(日程未定)
所在地:〒639-1058奈良県大和郡山市矢田町3549
開催期間:2018年6月1日〜7月10日8:30〜17:00
交通アクセス:近鉄「郡山駅」から「矢田寺前行」の奈良交通バス「矢田寺」〜徒歩10分、またはJR大和路線「大和小泉駅」から「近鉄郡山駅行」の奈良交通バス「横山口」〜徒歩20分
料金:【入山料】大人500円、小学生200円 ※本堂特別拝観は別途必要、閻魔堂特別開扉は無料
問合せ先:矢田寺0743-53-1445



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両祖大師誕生会青葉まつり2018

総本山智積院で、真言宗の宗祖・弘法大師空海と、中興の祖・興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)の両大師の誕生を祝う「両祖大師誕生会」が執り行われます。正式には「両祖大師御生誕慶祝法要(りょうそだいしごせいたんけいしゅくほうよう)」といい、緑の美しい季節に行われることから、一般には「青葉まつり」と呼ばれます。当日は、お練り行列、慶祝法要、柴燈護摩のほか、手づくり市「まんだら市」、諸堂めぐりなどが催されます。
所在地:〒605-0951京都府京都市東山区東大路七条下ル東瓦町964
開催期間:2018年6月15日9:45〜/慶祝法要 ※法要終了後柴燈護摩供法要
交通アクセス:京阪「七条駅」から徒歩10分、またはJR「京都駅」から206・208系統の市バス約10分「東山七条」〜徒歩1分、またはJR奈良線「東福寺駅」から徒歩15分
主催:総本山智積院
料金:無料(一部有料あり)
問合せ先:総本山智積院教宣課075-541-5361





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弘法大師降誕会2018

弘法大師様の誕生日をお祝いする儀式が、清荒神清澄寺で執り行われます。11時から本堂にて理趣三昧法要が営まれ、引き続き境内の修行大師尊像前にて読経が行われます。その後、小法話があり、参詣人にお供物が授与されます。
所在地:〒665-0837兵庫県宝塚市米谷清シ1
開催期間:2018年6月15日
交通アクセス:阪急宝塚線「清荒神駅」から徒歩15分、またはJR宝塚線「宝塚駅」から清荒神清澄寺駐車場まで定期路線バス運行あり(2月〜12月の日祝のみ)
問合せ先:清荒神清澄寺0797-86-6641


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献酒祭2018

京都近郊の酒造家が参列し、神酒を神前にお供えして一年の醸造安全と斯界の平安を祈願する祭儀が、平安神宮で執り行われます。自然の力に大きく左右される酒造りと神祭りは重要な意味があり、古来のままに素焼きの「耳土器(みみどき)」という杯に、銘柄ごとに注がれ奉献されます。
所在地:〒606-8341京都府京都市左京区岡崎西天王町
開催期間:2018年6月15日10:30〜
交通アクセス:地下鉄東西線「東山駅」から徒歩10分、またはJR「京都駅」から5系統の市バス「岡崎公園 美術館・平安神宮前」すぐ
問合せ先:平安神宮075-761-0221



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丹州観音寺あじさいまつり2018

別名を「あじさい寺」とも呼ばれる丹州観音寺では、例年6月上旬から7月上旬にかけて、100種類1万株のあじさいが開花し、「あじさい参詣(もうで)」に多くの人が訪れます。花の最盛期にあわせて「あじさいまつり」が開催されます。その年によりさまざまな催しが楽しめるほか、年に一度の住職による法話を聞くこともできます。※バスの本数が少ないためご注意ください。
所在地:〒620-0803京都府福知山市観音寺1067
開催期間:2018年6月24日13:00〜15:00
交通アクセス:JR山陰本線「石原駅」から徒歩15分、またはJR福知山線「福知山駅」もしくは「綾部駅」からバス約15分「観音寺バス停」〜徒歩5分
主催:丹州観音寺
料金:拝観有料/大人350円、高中生200円、小学生以下無料
問合せ先:丹州観音寺0773-27-1618



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二条城

二条城は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。

○歴史・沿革
・さまざまな二条城
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
1.室町幕府13代将軍足利義輝の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
2.室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。
現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。

・足利義輝の二条御所武衛陣の御構え
永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好三人衆らの襲撃を受け、義輝は落命した(永禄の変)。変後、跡地には真如堂が移された。

・足利義昭の二条城
義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され(フロイス『日本史』)さらには屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」説を記す)が立っている。

・織田信長・誠仁親王の「二条新御所」
織田信長が烏丸−室町の御池上る付近に設けた城館。信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した[要出典]。現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される[注釈 4]。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。

・羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」
羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。

・江戸時代の二条城
創建
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。
慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。
慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。

行幸
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

幕末
万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた。
文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。
慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。

近現代
明治の頃の二条城明治3年(1870年):東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。
明治4年(1871年):二の丸御殿は京都府庁舎となる。
明治6年(1873年):陸軍省の所管に移された。
明治17年(1884年):宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。
明治18年(1885年):京都府の新庁舎が完成し移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年(1892年)まで行われる。
明治26年(1893年)-27年(1894年):京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。
大正4年(1915年):大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。
昭和14年(1939年):宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。
平成18年(2006年)4月6日:日本100名城(53番)に選定された。
平成23年(2011年)度から、国宝の二の丸御殿など文化財建造物を中心に城全域の修理や整備を行う予定で一口募金を募っているが、応募は市の期待を大きく下回っている。
平成25年8月、修理の終わった唐門で天皇家の家紋(菊紋)の下に徳川家の家紋(葵の紋)があったと発表された。城内の瓦などでは葵の紋が削り取られている個所もあり、明治に時代が変わり天皇中心の政治に変わっていった名残だと推測されている。
平成27年2月、寺社連続油被害事件で被害に遭う。
平成27年3月、城内台所の間で将棋電王戦が行われた。
東映京都撮影所や京都映画撮影所からは最も近い場所にある城であるが、後述する通り天守が焼失しているなどのため時代劇の城のシーンのロケ地としてはあまり用いられないが、現代ドラマ等のロケ地としてはしばしば用いられている。時代劇で城のシーンのロケーションとしては、より遠方の彦根城や姫路城のほうがより用いられることが多い[要出典]。

○縄張
・立地
二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。

・縄張
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが、証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。

○建造物
外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。又、当初柱の銅版は金箔押しであって、現在現存している物より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となったものである。本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。

○庭園
・二の丸庭園
別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園[注釈 6]である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。

・本丸庭園
本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、1896年(明治29年)に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。

・清流園
二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に作られた和洋折衷庭園。

○文化財
・世界遺産
古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。

・国宝
二の丸御殿 6棟-1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。 遠侍及び車寄
式台
大広間
蘇鉄之間
黒書院(小広間)
白書院(御座の間)(附 附属の間、黒書院白書院間渡廊)

・重要文化財
城が宮内省から京都市に移管された後の1939年(昭和14年)10月28日に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、1944年(昭和19年)に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。
建造物本丸御殿(旧桂宮邸) 玄関
御書院
御常御殿
台所及び雁之間
二の丸御殿 唐門
築地
台所
御清所(附 廊下)
本丸櫓門(附 袖塀(南方・北方))
東大手門(附 多門塀(外面南方、外面北方、内面南方、内面北方))
北大手門(附 多門塀(外面東方、外面西方、内面東方、内面西方))
西門(附 多門塀)
鳴子門(附 袖塀)
桃山門
北中仕切門
南中仕切門
東南隅櫓(附 多門塀(西方))
西南隅櫓(附 多門塀(北方、東方))
土蔵(米蔵、二の丸御殿北方)
土蔵(北米蔵)
土蔵(南米蔵)
東南隅櫓北方多門塀
絵画二条城二之丸御殿障壁画 954面(附62面) - 1982年(昭和57年)6月5日指定。

○現地情報
所在地-京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
交通 地下鉄-京都市営地下鉄東西線二条城前駅徒歩1分。
バス-京都市バス 9・12・50・67・101系統「二条城前」バス停下車すぐ。京都市バス 15系統・京都バス 61・62・63・64系統「堀川御池」バス停下車徒歩2分。京都市バス 10・93・202・204系統「堀川丸太町」バス停下車徒歩6分。
入城料金-一般600円、中学生・高校生350円、小学生 200円 展示・収蔵館入館料 - 小学生以上100円
開城時間-8時45分-16時(閉城17時) 二の丸御殿観覧時間-8時45分-16時
展示・収蔵館開館時間-9時-16時45分(受付は16時30分まで)
休城日-12月26日-1月4日、毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日(当該日が休日の場合、その翌日を休城日とする)

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posted by かずぼん at 14:43| 城・陣屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

梛神社

梛神社は、京都府京都市中京区壬生にある神社。通称は「元祇園社」。境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社が鎮座する。
○祭神
祭神は次の通り。
主祭神素戔嗚尊
配祀神次の3柱のほか数柱。 宇賀御魂命
伊弉冉命
誉田別尊

○歴史
社伝では、貞観11年(876年)に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という[1]。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている[1]。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。

○隼神社
隼神社は、梛神社境内にある神社。式内社(大社)。

・祭神
主祭神 建甕槌神(たけみかづちのかみ)
配祀神 経津主神(ふつぬしのかみ)

・歴史
概史
創建は不詳。
国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある[2]。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。旧鎮座地には石碑が建てられている。なお、奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。
・神階
六国史における神階奉叙の記録。いずれも「後院隼神」と表記される。
貞観2年(860年)6月15日、無位から従五位下 (『日本三代実録』)
貞観7年(865年)6月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)
貞観10年(868年)11月17日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』)
貞観16年(874年)8月4日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)
・祭事
年間祭事は次の通り。
月次祭 (毎月1日・15日・17日)
歳旦祭 (1月1日)
元始祭 (1月3日)
節分祭 (2月2日・3日)
祈年祭 (2月17日)
氏神祭 (5月第3日曜)
夏越祓、茅の輪くぐり (6月30日)
隼神社例祭、火焚祭 (11月第3日曜)
新嘗祭、勤労感謝祭 (11月23日)
大祓式 (12月31日)

○現地情報
所在地京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
交通アクセス鉄道 阪急電鉄京都本線 大宮駅 (西へ徒歩約4分)
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅 (西へ徒歩約4分)
バス 京都市営バスで「壬生寺道」バス停下車

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野口家住宅

油小路通錦小路にある野口家住宅です。野口家は享保年間より代々呉服商を営まれている商家です。 元治元年(1864)の大火後に再建され、表の店舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した表屋造りで、小堀遠州とゆかりの書院を有する由緒ある歴史をもつ町家です。この住宅は、京町家の典型例の一つとして貴重であり、昭和58年6月1日、京都市指定有形文化財に指定されています。

住所:京都市中京区油小路通錦小路下る藤本町544
連絡先:075-211-3551

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