2017年05月18日

毛馬城跡

元亀元年(1570)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、大阪の地を舞台に、一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返した。織田信長は石山本願寺の周辺十箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51か所にも及ぶ出城を構えた。毛馬城は、この石山方の出城の1つで、飯満(けま)、すなわち「毛馬」のことであろう。これが毛馬城の起源であるが、守将名や規模などはわからない。毛馬城は、半ば幻の城なのである。天正六年(1578)、信長に対して叛旗を翻した伊丹城の荒木村重を攻撃するため、織田方が塚口郷・毛馬村・倉橋郷・原田郡などに付城を築城した(「信長公記」)とされるも、この毛馬ではなく尼崎市内の食満(けま)のほうであろうという見方もある。
築城年:天正4年(1576年)
築城主:本願寺顕如光佐
所在地:大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目7-26(善福寺)

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2015年10月12日

高槻城

高槻城は、明治7年(1874年)まで大阪府高槻市にあった日本の城。入江城とも呼ばれる。
○概要
室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。明治7年(1874年)に廃城となり、東海道線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。

○沿革
10世紀の末、990年に近藤忠範が久米路山と呼ばれる小丘に築城したのが高槻城の始まりと言われているが確証はない。高槻城の文献上の初見は、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野稙通に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。
その後、芥川山城に三好長慶が入城した天文22年(1553年)には高槻城は支城となっていたようで、入江春継が城主となっていた。長慶が永禄7年(1564年)に亡くなると、三好三人衆の1人三好長逸がこの地域一帯をおさめていたが、織田信長が摂津に侵攻、永禄11年(1568年)9月28日に芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城に近い形で降伏した。永禄12年(1569年)1月、本圀寺の変で15代将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する時に、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し、自害して滅んでしまったようである。この時逆に活躍したのが芥川山城主であった和田惟政で、信長より高槻城も与えられ高槻城を本城とした。この時から高槻城は近代城郭として大きく様変わりしていく。
キリスト教の最大の理解者であったのは、その後城主となる高山父子であるが、和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動を活発にしていたようである。天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585年)に船上城へ転封、高槻城は秀吉の直轄領となり城主となったが、同年末には亀山城へ移っていた。高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが関ヶ原の戦い後、今度は徳川氏の直轄地となる。徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。元和元年(1615年)6月に内藤信正が城主に、元和3年(1617年)に土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修した。ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となる。永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注いだ。その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至る。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により廃城。明治7年(1874年)には破却が始まり、向日町駅 - 大阪駅間の鉄道敷設用材として石垣などが利用された。明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯した。昭和22年(1947年)に高槻市立第一中学校、昭和26年(1951年)に大阪府立島上高等学校(現・大阪府立槻の木高等学校)が設置された。本丸跡にあたる槻の木高校内には高槻城跡の石碑が建てられている。

○規模
高槻城は主に4度の大規模な改修が実施されたと思われる。
・高槻城改修の歴史

第1次改修
永禄年間(1558年-1570年)和田氏 一重の堀を巡らしたものではないかと推定される

第2次改修
天正年間(1573年-1592年)高山氏 二重の堀を巡らしたものではないかと推定される

第3次改修
元和年間(1615年-1624年)土岐氏 近代城郭が完成、三重の堀を巡らし、本丸、二の丸、三の丸、出丸が確認できる

第4次改修
寛永年間(1624年-1644年)岡部氏 更に西側に堀を巡らし、西国街道に近い北側に城下町を整備したと思われる

最終的な高槻城の規模は、約南北に630m×東西に600mが推定される。

○城跡へのアクセス
電車でのアクセス JR東海道本線高槻駅-徒歩約10分
阪急電鉄京都線高槻市駅-徒歩約10分

車でのアクセス 名神高速道路茨木IC→国道171号
近隣に駐車場

所在地:高槻市城内町3番10号城跡公園内

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2015年09月02日

高浜砲台跡

この砲台は慶応2(1866)年10月淀川の守りとして幕府の命により対岸の樟葉砲台とともに築かれたものです。周囲約180m高さ約2.5mの堅固なものであったようです。高浜は藤堂藩が守備し対岸の樟葉砲台は酒井藩が守っていました。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ樟葉まで退いていた旧幕府軍に対し、新政府型に帰順した藤堂藩は砲撃を仕掛けました。樟葉も応戦しましたが撤退することになりました。砲台跡は広瀬との境界付近にあり、現在は河川敷ゴルフ場になっています。

所在地:大阪府三島郡島本町高浜1-14

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2015年03月29日

榎並城

榎並城は、大阪市城東区にあった日本の城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。
○概要
榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。
『万松院殿穴太記』によると、


此城は元来も宗三が館なれば、究竟(きゅうきょう)の要害を拵(こさ)へ、日来は子息衛門大夫政勝を籠置たり

?万松院殿穴太記
との記載が見受けられる。宗三は三好政長の事で衛門大夫政勝は政長の息子三好政勝の事を指し、かなり強固な城郭を築いたのではないかと推察されている。

○沿革
城史については大きく3つに分けられる。
・楠木時代
榎並の地の初見は南北朝の争乱の時で、『花宮三代記』によると楠木正儀が応安2年(1369年)3月、天王寺から榎並に退いて陣をしいたという記録がある。この時の陣所はどこか定かではないが、『日本城郭大系』によると、地勢からいって野江水神社周辺であったと解説している。ただ、この時の陣所が後の強固な城郭に繋がっていたのかは定かではない。
・三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。
・石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られたが、『陰徳太平記』によるとその51の支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより『日本城郭大系』では、「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最も有力である」と解説されている。

○城跡へのアクセス
電車でのアクセス 大阪市営地下鉄谷町線野江内代駅徒歩約5分
車でのアクセス 阪神高速道路守口線森小路出入口→国道163号近隣に駐車場無し(野江水神社に参拝者用の駐車場が1,2台あり)

○所在地
〒536-0006大阪市城東区野江4丁目1番28号

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2015年01月07日

西宮砲台

西宮砲台は、兵庫県西宮市香櫨園浜にある江戸時代末期の砲台跡。国の史跡に指定されている。
○概要
幕末の文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の時代に大坂湾の海防のために、和田岬砲台、舞子砲台などと共に建設された。竣工は慶応2年(1866年)。外郭は御影石による三層構造、内部構造は木造と見られている。内部には砲身冷却用の井戸も設置されていた。1884年(明治17年)火災により木造構造物を焼失しており、内部に入ることはできない。1922年国の史跡に指定され、「史蹟西宮砲台」の標柱設置。1978年内部を鉄骨で補強、天井を設置するなどの改修作業実施。

○交通アクセス
阪神西宮駅からバス、西波止場町バス停下車。

所在地:兵庫県西宮市西波止町1

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2014年04月08日

柳本陣屋

奈良県内に織田信長の弟の末裔が住んでいたということをご存知でしょうか。信長の弟、有楽斎系統である。それが柳本陣屋である。五男尚長柳本に陣屋を構え柳本藩になったそうです。柳本小学校が陣屋の中心地で、黒塚古墳が陣屋の一部として利用されたらしいです。
陣屋址は柳本小学校の敷地となり、堀の一部に利用した黒塚古墳の堀と石垣が残存するのみである。昭和42年(1967年)、表向御殿が橿原神宮文華殿として移築された(重要文化財に指定されている)。また、陣屋西門が移築現存する。
余談ですが東京にある「有楽町」は織田信長の弟の織田有楽斎系統の末裔の東京の屋敷がこの辺りにあったからこういう地名になったそうです。
アクセス:JR桜井線柳本駅から徒歩約5分。
所在地:奈良県天理市柳本町





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2014年01月06日

交野城

大阪府交野市にお城があったのをご存知でしょうか。
交野城は、河内国(大阪府交野市私部6丁目)に築かれた平城。別名私部城ともいう。
交野市の北方にある、東西に延びる丘陵、免除川の南側に築城された。
南北朝時代の文和元年(1352年)頃、安見清儀によって築城された。安見直政の時代、三好長慶に攻められ直政は逃れたが永禄12年(1569年)、織田信長の河内平定によって直政は帰城を果たした。直政の死後、筒井順慶に攻められて落城、天正3年(1575年)廃城となった。

所在地:大阪府交野市私部6丁目






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2014年01月05日

豊岡陣屋

兵庫県豊岡市に「豊岡陣屋」があることをご存知ですか。
豊岡陣屋は、兵庫県豊岡市京町(但馬国城崎郡)にあった陣屋で、豊岡藩の藩庁である。陣屋は寛文8年(1668年)京極高盛が移封し、戦国期の豊岡城祉の山麓に築かれたものである。豊岡城2万石の城主であった杉原氏は関ヶ原の戦いで西軍に与していたが、浅野長政の娘婿であることから、執り成しで旧領安堵されたが、3代藩主重玄の時嗣子なく改易となり、天領となった。
京極氏が3万5千石で入封し、4代高寛は10歳で没し、このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続が許され、減封に伴い家臣を大幅に除籍し、6代藩主高品の代になっても藩内の混乱は収まらなかった。9代高厚の代に明治維新を迎えた。
陣屋址は豊岡市立図書館の敷地になっており、明治時代の豊岡県庁の表門が現存するのみである。陣屋表門が出石の福成寺に、門2棟が市内長松寺と慈等寺に移築現存している。
○所在地
豊岡市京町5-28







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2013年09月11日

麻田藩陣屋門

この門は、もともと麻田藩陣屋(現在の蛍池駅付近)に構えられた西門とされていますが、陣屋絵図には西門が描かれていないので、おそらく陣屋内の門か、あるいは家臣邸の門ではなかったかと思われます。建築年代は明らかではありませんが、形式からみて江戸時代の末期に建てられたものとみられ、その後現地に移築されました。建物は入り母屋造りで、両脇に二間四方の居間があり、両開きとなる扉を釣りこんでいます。また、その両側には潜口を設け、右側前方に番所を張出した屋敷門の形式をもっています。右の間は扉口内側に式台を設け内部は押入れつきの六畳間と、二畳敷きの番所へと続いています。番所は三方向に出格子付きの窓を持っており、当時の陣屋の姿を知る上で貴重な姿を残しています。

所在地豊中市刀根山元町5-27








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2013年08月27日

原田城

○概要
原田城は原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で、小規模な「城館」となっている。摂津国では富松城、吹田城、鷹尾城、安威城と安威砦、山下城、野田城 (摂津国)(福島城)など2ヵ所1城とする城が多く見られるが、原田城も「北城」と「南城」の2つの城が成り立っている点も特徴として挙げられる。原田城跡は1987年(昭和62年)に豊中市指定史跡に指定された。また2007年(平成19年)12月5日に国の登録有形文化財に指定された「旧羽室家住宅」の庭園の一部に原田城の土塁跡があり、築山として利用されている。
○沿革
原田城の創建年代については永らく不明であった。1998年(平成10年)発行の『豊中市史 第9巻』では「北城は15世紀ごろに築かれ、16世紀後半まで存在していた」とされていた。北城は新しく戦闘用の城、南城は古く居館的役割なのではないかとしていた。しかし、その後2009年(平成21年)発行の『豊中市史 第1巻』によると、「発掘成果によれば、南城が築かれたのは北城よりも遅い十六世紀後半であることがわかった。北城については十四世紀ごろからの遺構が確認でき、このころから築城されはじめたと推測される」としている。原田城は数次に渡り発掘調査が実施されており、それらと比較して築城時が明確になった。『師郷記』によると1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津国守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。その後天文16年(1547年)2月20日、原田城は細川晴元軍3万兵の猛攻をうけ、陥落、開城した。『摂津志』によると、この時城主となっていたのが三好長逸ではないかとしているが、『日本城郭大系』では「当時の城主はわからない」としている。
この猛攻で北城は廃城し一旦荒廃していったと推察されている。発掘調査で南城が16世紀の後半に掘削されていることから、原田氏は以降南城を中心に活動していたとみられる。有岡城の戦いでは、原田城に古田重然や中川清秀ら織田信長軍が伊丹城の攻城戦の砦として活用したらしく、1994年(平成6年)の発掘調査から一旦廃城になっていた北城を復興させ、大改修が行われた事が明らかとなった。廃城は慶長年間で、原田氏の多くは豊後国岡城に移っていき、北城、南城とも荒廃し、現地には土塁と堀跡だけが残された。
○城郭
原田城は、豊中台地の南西部の丘陵にあり、平野を一望できる位置に立地する。北城は南北140m、東西120mあり、[ヨ]字状に外堀が巡らされている。有岡城の戦い時には幅15m、深さ5mの内堀があり、大規模な改修を行い守りを固めた。主郭の内側には1.5m-2.8m、幅5-10mの土塁が現在も残っているほか、東と南側にも土塁の痕跡が確認できる。また発掘調査からは、礎石痕や柱穴が確認できており、土豪の居館にふさわしい屋敷が建てられていた可能性がある。また3度にわたる焼土層が確認できていることから、火災にあった事が考えられる。
○原田村と誓願寺
北城と南城の東側に原田村が位置している。原田村の中心地に誓願寺がある。誓願寺は浄土真宗の寺院で1501年(文亀元年)に地元衆によって創立されたと伝えられている。天文の錯乱の時に細川晴元軍と本願寺軍は争乱となったが、原田城は本願寺軍の一部として戦ったことから、本願寺と原田城との関係は深いと考えられている。『豊中市史』によると「誓願寺と村との結びつきは早くから密接なものがあったと推察している。憶測すれば、原田村は誓願寺の寺内町として編成されたということも考えられなくはないであろう」としている。また原田村の西側には鍵の手形の道路が多い。このような道路の形状は城下町や寺町の特有のもので、中世の末期に原田村が形成された。原田村自身は以前より存在していたが、現在の形状とは違ったものであった。
○施設情報
原田城及び旧羽室家住宅は豊中教育委員会から委託を受けた、地元自治会が管理・運営を実施し、入場、見学が可能となっている。
毎週土、日曜日
午後12時-午後4時(午後3時30分までに入場)
入場料は無料
小学生未満は保護者同伴

所在地:豊中市曽根西町4-4-15

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2013年03月17日

若江城

若江城は南北朝時代(1382年)から安土桃山時代(1583年)の約200年間にわたって河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)にあった平城。畠山氏の河内経営の拠点で、河内国の経営を担当した守護代遊佐氏が歴代城主となった。
○城名の由来
若江という名称の由来は河内国若江郡に由来する。若江郡の若江は神功皇后の4年6月に大旱魃があり、この地域の農作物が大被害を受ける可能性が高まった際に、大般若経を唱和し雨乞いの祈願をしたところ、14日目に雨乞いは叶わなかったもののこの地に清水が滾々と湧き出し農作物が大被害を受ける危機から救われた。このことから、大般若経の『若』と清水の源という意味の『江』をとり、若江郡と称せられたという。また、一説に、古代の新開池は河内湖というほど大きく、その入り江のひとつが『若江』という名であったともいう。

○築城
1382年(永徳2年・弘和2年)に河内国守護となった畠山基国の命で築城された。当初は守護所としての政治機能のみの城であったが、時は南北朝の戦乱の時代であり、河内国南部には南朝の勢力が及んでいた。また、基国が河内国守護となった理由が、南朝から北朝に帰順していた楠木正儀(楠木正成の三男)が1379年の康暦の政変により支援者の細川頼之が失脚したことから再び南朝に帰参したことからそれに備えるためであった。さらに、楠木正儀と失脚し四国の領地に戻った細川頼之が連絡をとって反幕府の軍事行動を掣肘するためでもあった。そのため、基国は実力派の重臣、遊佐長護を築城の責任者に任命し、守護所設置に続いて、防衛施設としての城郭を計画させた。畠山基国は遊佐長護ともに守護所を定める時点で河内国に下向し、防衛に適してなお、河内国の政治を統括し、周辺の経済活動の中心としての将来性、周辺事態に対しての軍事行動が容易であるなど観点から、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神とし、神社に射す朝日を遮らぬようにその西側に城の中心を定めた。遊佐長護は近隣の村落に檄をとばして農夫を集め、築城を開始した。若江の地は西方1.5キロメートルほどに大和川本流(旧大和川、現在の長瀬川)があり、東方1.5キロメートルほどに大和川支流玉串川があり、二つの大河を東西の天然の外堀として、玉串川が若江の北東で吉田川と菱江川に分かれ、そのうちの菱江川が分かれた後、西向きに流れを変え、新開池を経由して大和川本流と合流しており、この菱江川が北方の天然の外堀となっていた。また、大和川本流と支流である玉串川との中間には両大河ほどではないが、楠根川(現在は第二寝屋川に移設され、若干流れが異なっており、跡地は公園などになっている)があり、楠根川が内堀へ水を供給し、若江城内への水運の便を提供していて、それらの河川の整備と街道の整備が築城と並行して行われた。この時に整備された街道が後の、河内街道、十三街道(俊徳道)である。それらの街道は若江城の城下町で交差するように設計され、この街道の交差部を中心に若江城の城下町は計画された。全体計画は遊佐長護が担当し、城郭などの現場指揮は、長護の子息とされる遊佐国長が執った。河川の整備および治水対策などは畠山氏譜代の斎藤基則、斎藤利宗(次郎左衛門尉利宗か)、門真小三郎(国康か)、在地の河内国人の萱振氏(名称不詳)などが担当した。また、城下町の整備や街道の整備は畠山氏譜代の遊佐五郎(家国か)、稲生平左(平左衛門尉基宗か)、稲沢小四郎(貞行か)、吹田孫太郎(国道か)、三宅四郎(家村か)らなどが担当した。また、増援として遊佐基光、神保肥前守、誉田氏、槇嶋氏などが派遣されたが、時期や担当は不詳。1385年(至徳2年・元中2年)ごろには一応完成をみたが、その後も改修を加えた記録もあり、また、城下町の繁栄や水害などの理由で大きな改修が数度にわたって行われた。

○歴史
年 月日 事柄
1382年 畠山基国、若江城の築城開始。
1385年 一応の完成。
1398年 畠山基国、管領就任。
1406年 畠山基国、薨去。長男、畠山満家、将軍足利義満の嫌忌のため、次男、畠山満慶が家督継承。
1408年 将軍、足利義満、薨去。畠山満慶、当主の座を兄、満家に譲る。満家、弟に能登国を与え、河内国などの守護となる。
1410年 畠山満家、管領就任。
1412年 畠山満家、管領退任。
1421年 畠山満家、管領に再就任。
1429年 畠山満家、管領退任。
1433年 畠山満家、薨去。
1457年 河内土一揆、若江城付近にも騒擾が及ぶ。
1460年 2月 畿内に大地震。若江城に被害があったと伝う。
1460年 大雨で洪水が起こり、若江城にも洪水の被害があった。
1460年 10月 大和の筒井順永が若江城の畠山義就を攻め、義就、嶽山城に撤退。
1461年 2月 河内で馬借が蜂起し、若江城下で騒擾。
1462年 4月 畠山政長、細川成之とともに畠山義就を攻める為に出陣、若江城に立ち寄る。
1464年 正月 畠山政長、若江城で河内国人たちの年賀を受ける。
1465年 夏 大暴風雨があり、河川が氾濫。若江城も水害を受ける。
1467年 1月18日 畠山政長と畠山義就が上御霊社で戦い、応仁の乱が始まる。
1471年 7月 筒井順永が若江城を攻略。
1473年 12月19日 畠山政長、管領就任。
1475年 8月 台風が畿内を直撃。大和川などが氾濫。若江城に甚大な被害。
1475年 12月 蓮如が若江城下で布教。
1477年 10月9日 畠山政長の配下の遊佐長直が守る若江城が畠山義就の攻撃を受けて落城。畠山義就が入城。
1477年 12月25日 畠山政長が管領就任。
1483年 8月22日 河内十七箇所の戦いで畠山義就が畠山政長を水攻めにした。そのため、若江城近隣も水害がおよぶ。この戦いの結果、畠山義就が河内の支配権を確固たるものにした。
1485年 8月 河内に土一揆が起こり、若江城か近隣でも騒擾。
1486年 8月1日 畠山政長が管領就任。
1490年 12月12日 河内で畠山義就が薨去。若江城または高屋城で薨去か。
1492年 5月 河内で国一揆がおこり、若江城周辺の国人なども参加し、若江城の守備が強化された。
1493年 閏4月25日 明応の政変。畠山政長、河内国正覚寺で自害。
1497年 冬 畠山政長の遺児、畠山尚順が紀州から和泉を経て、河内国の高屋城を攻めて、畠山義就の子、畠山基家を駆逐し、勢いに乗って大和でも勝利し、若江城を奪還。
1499年 1月 畠山尚順、若江城より出陣し、河内十七箇所で畠山基家を撃破し、自害させる。
1499年 9月 畠山尚順、若江城より出陣し、摂津国に侵攻。
1499年 10月 河内で土一揆。畠山尚順方の守護代遊佐氏が鎮圧に失敗。
1499年 12月20日 畠山尚順、摂津天王寺に細川政元に敗れ、紀州に敗走。若江城孤立。
1500年 9月 畠山尚順、紀州より和泉国へ侵攻し、岸和田城を攻略し、和泉半国守護、細川元有を撃つ。続いて、河内誉田城に畠山基家の遺児、畠山義英を攻めるが、細川政元が派遣した赤沢朝経、薬師寺国経らの援軍に敗れ、紀伊へ撤退し、若江城の奪回に失敗。
1504年 畠山尚順と畠山義英和睦。高屋城に尚順、誉田城に義英が入城。若江城は史料に見えず。遊佐順盛が城主ともいわれる。
1506年 両畠山氏の高屋城、誉田城が細川政元の家臣、赤沢朝経の攻撃を受け落城。
1507年 12月 畠山尚順、畠山義英の和睦が破綻。河内国嶽山で合戦。
(この間の状況は不明)
1537年 若江城主であった若江兼俊に謀反ありとして六角義賢はこれを高野山へ追放し、その跡に堀江時秀を入れて守らせた。
1546年 若江城主の河内守護代、遊佐長教、若江城より出陣し、堺に三好義賢の軍を撃破。
1548年 若江城主の河内守護代、遊佐長教と高屋城主の河内守護、畠山政国の連合軍と、三好長慶が戦い、和睦。
1549年 若江城主で河内守護代の遊佐長教が出陣。三好長慶と連合して細川晴元派の三好政長を摂津江口に撃破し、細川晴元政権崩壊。
1551年 5月5日 若江城主、遊佐長教が暗殺される。
1560年 7月3日 畠山高政方の守る若江城が三好長慶方の猛攻で陥落。畠山方の救援軍も若江城の南方で撃破される。
1569年 1月4日 堺に三好三人衆の軍勢が上陸し、京へ向って進撃を開始したため、反三好三人衆の若江城主三好義継が若江城より出陣。
1569年 1月6日 若江城に若江城主の三好義継が討ち死にとの誤報があり、混乱する。
1570年 6月19日 摂津池田氏の内紛があり、池田勝正が追放され、若江城に入城する。
1571年 9月22日 若江城で松永久秀の家臣、竹内秀勝が死亡。
1573年 7月20日 15代将軍足利義昭が京を追放され、羽柴秀吉の警固を受けてながら三好義継の若江城に入城する。
1573年 11月5日 足利義昭が和泉堺に移るため、若江城を発つ。
1573年 11月10日 織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、佐久間信盛軍が三好義継を若江城に攻める。
1573年 11月16日 若江三人衆の多羅尾右近、池田教正、野間長前らが謀反し、佐久間信盛らを導きいれ、若江城は落城。追い詰められた三好義継は自刃して果てた。その後、若江城は教正を筆頭として若江三人衆が支配した。
1574年 9月8日 河内門徒に攻略されていた、若江城を織田軍が攻撃し、陥落する。
1576年 5月6日 大坂での苦戦の報告を受けた織田信長が5日に京都を発ち、若江城に入城する。翌日、天王寺砦に入る。
1577年 2月16日 雑賀攻めのため織田信長が京都を発ち、この日、若江城に入城する。
1581年 閏3月5日 織田信長と本願寺が和睦し、織田方の前線であった若江城も厳戒態勢を解く。
1583年 破却。

○キリシタン
三好義継の死後、若江城主となった池田教正は熱心なキリシタンであり、シメアンという洗礼名を持つほどであった。池田教正は若江城下に司祭館が附属した教会を設置するなど若江城下にはキリシタンが多くいたことがフロイスの『日本史』に記されている。しかし、その後、若江などの河内のキリシタンの支援者であったサンチョの洗礼名をもつ三箇頼照が本能寺の変後に明智光秀に味方したことから没落し、池田教正も豊臣秀次が処断されると改易され没落した。また、若江城自体が豊臣秀吉の大坂城築城に伴い城が破却されるなどしたために衰退したことから、キリシタンも衰退した。

○水害
築城の項でも述べたが、大河に挟まれたデルタ地帯にある城であり、後に大和川が付け替えられたことでもわかるように水害が多く、その対策として川浚いや堤防の増築などが繰り返し行われた。しかし、発掘調査でもあるように、水害によって城下町が押し流されたこともあった。

○廃城
天正8年閏3月5日 に織田信長と顕如との和議が成立したため、織田方の前線拠点のひとつであった若江城は近隣の八尾城に統合されて、廃城となったとされるが、1583年(天正10年)に始まった大坂城の築城の際の記録に若江城を破却し、その石垣および一部の残存建築物を移したとあることから、この頃に廃城になったとも考えられている。

○構造
本丸などの主要部は東西が約130メートル、南北が約150メートルの20,000平方メートルほど。

○発掘調査
若江城跡は、1972年(昭和47年)から発掘調査が行なわれている。判明している部分では若江公民分館を中心としていたこと。周辺から二重の堀。土塁跡や櫓などの建物の遺構、井戸跡が発掘され、漆黒の瓦などが出土しており若江城の建物が瓦葺であったことも判明している。また、土器類・武器類などが多数出土している。

○所在
大阪府東大阪市若江南町2丁目9番2号ほか






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2013年03月11日

烏帽子形城

烏帽子形城は大阪府河内長野市喜多町の烏帽子形山にあった城。奥河内の観光地の一つで、国の史跡に指定されている。現在は烏帽子形公園となっており、これについても併記する。
○概要
楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、上赤坂城の支城の山城である。東側斜面に烏帽子形八幡神社、北側斜面に烏帽子形古墳がある。2012年1月に国の史跡に指定されて以降、遊歩道などの再整備や案内板などの改修などが行われた。

○歴史
元弘2年 / 正慶元年(1332年)、楠木正成が上赤坂城の支城として築城。西高野街道を眼下に見下ろす要所の地にあるため、南北朝時代には主に南朝の楠木氏の城として北朝の畠山氏との争奪戦が行われ、室町時代・戦国時代には義就流畠山氏と政長流畠山氏の間で争奪戦が行われた。天文年間には楠木正季の子孫である甲斐庄氏の当主隆成が城主であったが、敵対する義就流畠山氏の畠山定国によって落とされ、代わって碓井定純が入城した。元亀年間には甲斐庄正治(橘長治)が入り、畠山高政や根来寺衆徒等が幾度も入城して三好長慶に抵抗した。正治はキリシタンであったため、城下でキリスト教を奨励し、南河内の一大拠点として大いに賑わいを見せた。畠山氏滅亡後、正治は徳川家康の家臣となって遠江へ移ったため、烏帽子形城は岸和田城主である中村一氏の支城となり天正12年(1584年)には改築なども行われはしたが特に使用されることなく放置される。だが、大阪の陣で正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来た。しかし、大規模なこの城を維持できずに元和3年(1617年)に廃城処分にした。

○烏帽子形公園
昭和30年代に風致公園として烏帽子形城跡を含む烏帽子形山の敷地に開園された。烏帽子形山に遊歩道(ハイキングコース)を整備した公園であり、ありのまま自然が残されている。そのほか、プールや展望台などがある。烏帽子形遺跡という古墳時代後期(6世紀代)の円墳があり、過去の調査で自然石で構成された横穴式石室の存在が確認されている。市内にある公園の中でも長年整備されないままであったため、この公園自体を烏帽子形城跡と認識されることも多い。現在は、園内の案内図によると一部を除いて再整備がなされている。

○交通
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスの岩湧線、南花台・南ヶ丘線、南青葉台線、モックルコミュニティバスのいずれかの路線で「上田」停留所を下車後、上田町北交差点から西へ約600メートル。阪和自動車道美原北ICから国道170号(大阪外環状線)、もしくは国道309号を経由し、国道371号上田町北交差点から西へ約600メートル。






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2012年12月27日

郡山城

茨木市内に郡山城というお城があったことをご存知ですか。郡山城は郡正信が城主。郡正信とは高槻城城主和田惟政の家臣で、郡村、中河原村、宿河原村、上野村、下井村、五ヶ市村、七ヶ村を領地にしていたようである。郡山城の沿革についてはほとんどが不明で、いつ築城され、いつ廃城になったのか解っていない。白井河原合戦で和田惟政、池田勝正の連合軍と、荒木村重、中川清秀連合軍が戦ったが、その時荒木村重、中川清秀連合軍が郡山の馬塚という地域に陣取たが、それは郡山城ではなかったかという指摘もあるが、ここから北へ約200m先の「本頂寺」周辺との指摘もあり、詳しくは解っていない。
城郭についても不明な点が多いが、明治時代初期に作成されたと思われる『東摂城址図誌』に郡山城の絵図がある。これによると城跡とされる部分は南北六十間(約110m)、東西六十七間(約120m)あり、現在の浪速少年院の大半が郡山城跡と推定されている。またこの『東摂城址図誌』には約三分の一が「山地」、約三分の一が「畠地」、約三分の一が「田地」とあり、この時にはすでに城跡としても消失し、一部が田畑化していたと思われている。浪速少年院は小高い丘の上にあり、このような場所が城郭として選地されたと思われている。また、茨木市教育委員会が建てた案内看板の下に、郡山城で使用されていたと思われる石垣の石が置いてある。これは大正11年(1922年)に浪速少年院の工事中に大量の石垣が発見され、その中に郡家の家紋と推定されている、三ツ鱗や三ツ星の刻印された石も出土した。またこの周辺(西に200メートル程いったところにある公団住宅内)には「城の内」、「門口」など城跡を思わせる地名が残っている。
所在地:大阪府茨木市郡山1丁目


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2012年12月06日

目垣城跡

目垣の地は、古代から中世にかけて広くこの地を統裁していた溝咋氏の所領溝咋荘の内にあり、溝咋荘の代表的な土地であったことから、この名が付けられたといわれています。位置・興廃年月とも不詳。以上のように、この辺りに土豪溝咋氏の城館があったことが伺えますが、その興亡や跡地を断定することは困難です。しかし溝咋氏は古代からこの地方に勢力のあった豪族で、目垣を中心として、館を造り塁堡も築いたことは当然考えられます。その場所は、おそらく安威川左岸・育英橋を下った辺りであると考えられています。
仏照寺の南側の私有地のなかに石碑と案内板がつくられています。

○所在地
茨木市目垣1丁目





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安威城

昔茨木市に安威城という城があった事をご存知ですか。安威川西岸の丘陵に築かれた山城で、『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模があったと思われ、『東摂城址図誌』によると内郭、本丸跡の中心部には「御殿台」という土壇があったとの記載が見受けられるが、現在は宅地化されわずかに北東に土塁跡が見受けられる。
今現在は石碑があるのみである。
所在地:茨木市安威2丁目12番地






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2012年04月24日

飯盛山城

飯盛山城は、大阪府大東市及び四條畷市にある城。標高315.9mの飯盛山に築かれた山城である。
○概要
日本の中世史、中世城郭史を研究する上で、飯盛山城は重要な位置を占める。河内と大和との間には生駒山脈が南北に走り、これが国境となっている。飯盛山城は、その生駒山脈の北西支脈に位置している飯盛山に築かれている。中世の山城としては、かなり大きな部類に属し、強固な要塞であった。全盛期には、南北に1200m、東西に500mに達し、70以上の曲輪が確認されている。

○沿革
・南北朝時代
この城の始まりは、『河内志』によると佐々目憲法(僧正憲法)が南北朝時代に築いたとされているが、藤田精一の著書『楠氏研究』によると、これは河内国ではなく紀伊の飯盛山城であると指摘している。正平3年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで、北朝方の高師直が6万の大将として四條に着陣。太平記によると、
“ 懸下野守、その勢五千余旗飯盛山に打ちあがりて ”?太平記
という記載が見受けられ、南朝方の恩地氏が飯盛山城に立て篭もったようである。ただ、この時代はまだ臨戦的陣城で、恒久的な城ではなかったと思われている。

・戦国時代
天文年間に畠山義堯が河内を支配するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。この時に臨戦的陣城から恒久的な居城に改修されたと思われる。

「飯盛城の戦い」
足利義維を擁する細川晴元が実権を握った為、束の間の平和が訪れるかに思われた。ところが細川高国を討滅させたという大きな軍功を挙げていた三好元長と木沢長政の対立が、新たな戦乱を引き起こしていた。対立の発端は、河内を巡る主権争い、守護代の木沢長政が守護の畠山義堯(義宣)から守護職を奪い獲る企てが発覚したことにある。享禄4年(1531年)8月、怒りをあらわにした義堯は三好元長の一族三好勝宗(三好一秀)に頼んで飯盛山城を攻めたが、長政からの援軍要請を受けた細川晴元によって撤兵命令を下されたため、三好勝宗は一旦兵を収めている。しかし翌5年(1532年)5月、態勢を整えた義堯と勝宗は飯盛山城を再攻、三好元長にも増援を要請している。そこで長政も再び晴元に援軍を要請したが、畠山・三好連合軍の攻囲を排除させるには至らなかった。そこで自軍での武力排除を断念した晴元は、山科本願寺の法主証如に一揆軍の蜂起を要請。この背景には元長が肩入れする本願寺の対立宗派・法華宗へのライバル意識を巧みに利用したものと思われている。17歳になった証如は、祖父の実如の遺言であった「諸国の武士を敵とせず」という禁を破って、同年6月5日に山科本願寺から大坂に移動、摂津・河内・和泉の本願寺門徒に動員をかけた。これに応じた門徒は、総勢3万兵に及ぶ大軍だったと言われている。6月15日に飯盛山城の攻囲軍を背後から襲った一揆軍は、三好勝宗を含む200余兵も討ち取り、退却する畠山義堯も追撃し6月17日には自害に追い込んだ。なおも6月20日、三好元長の逃げ込んだ和泉顕本寺を取り囲んだ一揆軍には各地より続々と新たな門徒が集結したため、10万兵まで膨れ上がったとも伝わっている。そこで元長を含む80兵余りを血祭りに挙げた一揆軍の脅威により晴元は勝利し、長政も命を拾ったものの、蜂起を収束させない一揆軍の暴走が天文の錯乱に発展していく。

「三好長慶の居城」
その後、木沢長政も太平寺の戦いで父の仇であった三好長慶に討ち取られてしまう。長政亡き後、城主になったのが交野城の城主であった安見宗房である。安見宗房は畠山高政の家臣であったが、自ら河内の守護代を名乗り主君の高政を紀伊に追放してしまう。永禄2年(1559年)、長慶は高政を援けるべく兵をあげ、宗房は大和に敗走した。高政はこの三好軍の手際の良さを逆に驚き、河内への進出を阻止すべく、敵対した宗房を正式に守護代に任命、再び飯盛山城に配置した。この処置に憤慨した長慶は高政の居城高屋城を攻囲、援軍に駆けつけた安見軍を寝屋川付近で撃退し、高政・宗房は共に堺へ敗走し、翌永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城に入城した。この時から長慶は飯盛山城を居城と定め大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。翌永禄4年(1561年)、畠山高政は根来衆を引き連れ反撃を試み、飯盛山城の支城となっていた三箇城を攻め落とし、翌永禄5年(1562年)の久米田の戦いで長慶の弟義賢を討ち取り、同年4月に飯盛山城への総攻撃が開始したが、背後から長慶の弟安宅冬康や松永久秀の援軍が襲いかかり、長慶も狭撃して畠山軍を撃退した(教興寺の戦い)。

「廃城」
長慶も飯盛山城、芥川山城、高屋城を拠点に畿内で勢力を拡大しようとした矢先に、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死、ついで翌7年(1564年)、安宅冬康も流言によって自殺させると、長慶自身も病に取りつかれ同年7月24日、43歳で没した。御体塚曲輪跡には死後3カ年仮埋葬されていたと言われている。その後三好義継や三好三人衆が飯盛山城を治めていたようだが、織田信長により摂河平定が行われると三人衆も軍門に下り、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。遊佐信教の反乱によって昭高が殺害されると、これに激怒した信長の攻撃を受けて信教は殺害され(高屋城の戦い)、天正4年(1576年)に落城し廃城となった。

○城郭
飯盛山城の縄張りとして、最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、南北一直線上の尾根伝いに主要な曲輪群、東西の尾根の先端部にはそれぞれ曲輪を築いている。

・本曲輪
高櫓曲輪は、25m×15mの削平地があり楠木正行の銅像の建っている。その北側に本曲輪があり、その下に山城では珍しい石垣がある。その本曲輪下以外にも石垣があるが、これは土塁止め程度と思われるが、この本曲輪下の石垣は滝谷、東側からの防御用の可能性も指摘されている。三好長慶が、かつて居城としていた芥川山城も同様の石垣が見受けられるため、三好長慶の改修時に築かれた可能性がある。但し山城での石垣は珍しいので、三好長慶の改修時ではなく、織田信長の落城後に再構築した可能性も指摘されている。

・千畳敷曲輪
高櫓曲輪から、南側には千畳敷曲輪40m×32mがあり、在阪FMラジオ送信所が建っている。また、周辺には堀切、虎口等の遺構が残っている。千畳敷曲輪の東側に馬場曲輪があり、楠公寺が建っている。この馬場は広さから来ているもので、本来の馬場ではなく、なんらかの兵とん施設があったのではないかと推定されている。

○飯盛山城から見た眺望
飯盛山は大阪府内でも有名なハイキングコースとなっており、山頂からの眺望もよく、平日でも数多い登山を楽しむ人々がいる。反面、城内にもいくつかのハイキングコースが設定されており、河内地方では珍しい二重堀切が存在していたが、山道の拡張によって破壊され、遺構が良好に保存されにくい側面がある。また、飯盛山は森林ボランティアの人々が下草刈りや立ち枯れ木の処理、植樹活動を展開し、山林を保持しようとしている。しかし、曲輪内にも植林されており、将来遺構の破壊に繋がるのではという意見もある。


四条畷神社のほうから登りました。
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この写真を見て分かるようにこの城は景色の良いところに立地している城である。しかし、登コースを間違うと大変な事になる。四条畷神社のほうから登ったため、強烈に急な上り坂があって大変だった。野崎の方から上る方が緩やかで体力的にらくだと思う。




posted by かずぼん at 11:19| 城・陣屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月10日

野崎城

野崎城は、大阪府大東市にあった城。
○概要
野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山に築かれた城で、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。

○沿革
河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城の支城として、守護代の遊佐氏が守っていたのではないかという説もある。飯盛山城が築城後は、東高野街道から飯盛山城に向かう推定の大手通り上に野崎城があるため、むしろ飯盛山城の支城となったのではと考えられている。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。

○城郭
山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。

○城跡へのアクセス
車でのアクセス
阪神高速 東大阪線 水走出入口 → 国道170号旧道を北上
近隣に駐車場無し(慈眼寺に参拝者用の駐車場有り)
公共交通機関でのアクセス
JR 学研都市線 野崎駅 → 約10分 → 野崎観音 → 約10分

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posted by かずぼん at 16:22| 城・陣屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

古河藩陣屋

平野郷の陣屋は天明年間土井候の下総の国古河藩時代に置かれ明治二年の版籍奉還後陣屋は廃止されたそうです。平野陣屋とも言われているらしい。陣屋の門が大念仏寺に移築され保存されている。

所在地:大阪府大阪市平野区平野宮町1-9-29(平野小学校の前に石碑がある)


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posted by かずぼん at 14:49| 城・陣屋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伊丹城

伊丹城は、有岡城ともいう。兵庫県伊丹市にある城で国の史跡に指定されている。日本最古(1520年)の天守台を持つ平城である。荒木村重は、伊丹氏の伊丹城を大改修し、有岡城に改称した。荒木村重は後に謀反を起こし、有岡城は織田信長に攻められて落城することになる。
大阪城や江戸城などにもあった惣構えの最古の遺構(2005年現在)が発掘された。城の東側を流れる伊丹川との間は崖になっており、さらにその東側には駄六川と猪名川が流れており、これらの河川が天然の要害となっていた。
築城主 伊丹氏
築城年 南北朝時代
廃城年 1583年
所在地:兵庫県伊丹市伊丹2丁目(JR伊丹駅西側。有岡公園内)
遺構として石垣、土塁、堀跡がある。今は石碑等があるが天守閣は無い。


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2012年04月08日

三箇城跡

築城年代・規模などは不明であるが、深野池に浮かぶ最大の島(大箇)にあったと推定され、城屋敷・城堤等の地名が残る。戦国時代飯盛城の出城としてその任にあたっていたが、永禄四年(1561)大雪の12 月25 日に油断をつかれ畠山方に落ちたという。

所在地:大東市三箇5-2-3(三箇菅原神社の横)
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