2017年06月04日

佐伯祐三生誕の地

大阪が生んた偉大な洋画家佐伯祐三は、明治31年(1898)光徳寺に生まれた。大正12年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業し、大正13年に妻子を伴いフランスに渡り、ブラマンクやユトリロらの感化をうけながら、独自の画境をひらいた。そして数多くのパリ風景を描きつづけ、いったん帰国したが、再度フランスに渡り制作にはげみ、大きく飛躍した。しかし、病にたおれ、昭和3年わずか30歳で死去した。代表作に「ノートルダム寺院」「サンタニス寺院」「郵便配達夫」などがある。

所在地:大阪府大阪市北区中津二丁目5-4光徳寺
地下鉄御堂筋線「中津」下車北約200m

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2017年05月28日

旧奈良監獄をホテルに=観光資源として活用―法務省

旧奈良監獄をホテルに=観光資源として活用―法務省

法務省は26日、明治時代に建てられた重要文化財の旧奈良監獄(奈良市)をホテルに転用すると発表した。政府は観光戦略の一環として、公的施設の活用を進めており、2020年の訪日旅行者数4000万人達成につなげたい考え。旧奈良監獄は3月まで奈良少年刑務所として運用されていた。赤れんがの外観で観光資源として価値が高く、ホテルが少ない奈良で需要もあると判断した。敷地内は、監獄棟の独房を改修した客室や病院棟を使った価格の安い簡易宿泊施設が中心。日本の刑罰の歴史を学べる資料館や地域の物産を扱う店舗なども併設する。全国でホテルを展開する「ソラーレ・ホテルズ・アンド・リゾーツ」(東京都)などの共同事業体を優先交渉権者に選定。耐震化や客室への改修工事などを経て、20年の開業を見込む。 

時事通信 2017/5/26(金) 18:29配信

旧奈良監獄がホテルに 清水建設「観光への貢献うれしい」
法務省が26日、旧奈良監獄(奈良市)の運営権の優先交渉権者を8社のコンソーシアム(共同事業体)に選んだと発表したのを受け、コンソーシアムの中心企業である清水建設の担当者は「成長産業の観光に貢献できるのはうれしい」と話した。旧奈良監獄は明治時代に造られた五大監獄の一つで赤レンガの名建築で知られる。2020年をメドに重要文化財を生かしたホテルに生まれ変わる。優先交渉権者は「チサン」ブランドなどのホテルを運営するソラーレホテルズアンドリゾーツ(東京・港)を代表企業とするコンソーシアム。清水建設、近畿日本ツーリスト、デザイン会社のセイタロウデザイン(東京・品川)などで構成する。8月に実施契約を結ぶ。清水建設の担当者は「美しいレンガ建築が残ったのは奇跡」とした上で「貴重な文化財の保存と活用のバランスを意識した工事になる。当社は大阪の中央公会堂などレンガ建築改修の実績があるので経験を生かして取り組みたい」としている。旧奈良監獄は奈良少年刑務所として運用してきたが、耐震性の問題などから、3月末に閉鎖された。コンソーシアムが提案しているのが体験型複合施設だ。旧奈良監獄を耐震補強しつつ、必要最小限の改修を施す。重要文化財のため、文化庁の許可を得て、独房などを客室に改装。敷地内に別にホテル棟を新設し、客室は約290室確保する。10万6千平方メートルの敷地内にはレストラン、カフェバー、イベント空間、コミュニティーセンターを配置。天然温泉の温浴設備も設けるという。総事業費は150億円強の見通しだ。法務省の要請に応えて「建築行刑史料館」も設置する。旧奈良監獄が担ってきた役割や行刑・矯正の歴史を展示で分かりやすく伝える。史料館はホテルに先行して19年10月に開館する予定だ。法務省は公共インフラの所有権を国に残しつつ運営権を民間に売却するコンセッション方式で、活用を模索。博物館、史料館、ホテルなどへの転用を探っていた。奈良を訪れる観光客は奈良公園内にある東大寺や興福寺に集中する一方で、奈良県庁の北約1.5キロにある旧監獄周辺を訪れる人は少ない。ホテルなどが少ない奈良県は宿泊需要も低迷し、16年の宿泊者数は244万人と全国で2番目に少ない。大阪府の7.8%、京都府の13.5%にすぎない。関西観光は大阪、京都を中心に動くケースが多いだけに、奈良に魅力あるホテルができれば宿泊需要も掘り起こせる。国が民間のノウハウを利用し、文化財の保存と活用を目指す新たな試みで、奈良や関西観光の活性化につながりそうだ。

2017/5/26 18:41



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2017年05月25日

近代製紙業発祥の地

この地は江戸時代熊本藩蔵屋敷であったが、明治になって後藤象二郎が経営する蓬莱社が払い下げをうけ 同八年(1875)二月にイギリス製の機械を用いて洋紙の製造をはじめた。これが日本の洋紙製造業の発祥という
(説明板)
近代製紙業発祥の地
この地は,明治八年(1875)に日本ではじめて洋紙がつくられた場所です。明治四年(1871)、大阪の商人平野屋五兵衛(ひらのやごへえ)がイギリスから洋紙をつくる機械を買ったことがきっかけとなりました。その機械を,高知出身の政治家、後藤象二郎が大阪の商人たちとつくった,蓬莱社という会社が譲りうけました。もとは熊本藩の蔵屋敷(くらやしき)であったこの土地に、製紙工場を建てて洋紙をはじめてつくったのです。その後、何回か会社の名前がかわりましたが、第二次世界大戦のころまで、この地に工場がありました。
大阪市教育委員会

所在地:大阪府大阪市北区中之島5-3-51

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2017年05月21日

府立大阪医学校跡

明治12年(1879)西本願寺掛所内にあった大阪府病院は、府立大阪病院と改称し北区常安町に移ります。そして昭和6年(1931)設置の大阪帝国大学医学部のもととなるそうです。現在は大阪大学中之島センターになっています。石碑等はなし。

所在地大阪府大阪市北区中之島4-3-53

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高松藩蔵屋敷跡

大阪市北区中之島にあるリーガロイヤルホテルの前庭に「蔵屋敷跡」の石碑がある。当地は讃岐高松藩蔵屋敷跡があった場所である。江戸時代の学僧、慈雲尊者は1718年(享保3年)この高松藩蔵屋敷に生まれた。13歳のとき大坂田辺の法楽寺で得度し、畿内各地で修行研究を重ね、京都で伊藤東涯に儒学も学んだ。彼の代表的な著書で、インドの原典を注釈した「梵学津梁」1000巻は今日なお世界の驚異といわれている。

所在地:大阪府大阪市北区中之島5丁目3(リーガロイヤルホテルの前庭)

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佐賀藩蔵屋敷跡

大阪市北区西天満4丁目、大阪高等裁判所の外周、植え込みの中に「佐賀藩蔵屋敷跡」の碑が建っている。

所在地:大阪府大阪市北区西天満2丁目1番10号

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梅花社跡

篠崎三島が安永5(1776)年に開いた儒学塾。三島は父の没後、二代目伊予屋長兵衛を襲名し、家業の紙問屋を経営していた。不惑の齢となって隠居して私塾を設け、庭に緑萼梅を植え、それにちなんで塾名を梅花社と称した。三島は、菅甘谷、麻田剛立らに学び、詩文・書芸に優れ天文学や卜占などにも通じていた。淡路国洲本の城主であった稲田氏に招かれて出講することもあった。文化10(1813)年に77歳で没した。寛政5(1793)年、三島は当時13歳であった門人、加藤金吾を養子に迎えた。9歳から梅花社に学んでいた秀才で、後に篠崎小竹と名乗り、塾を現在の今橋四丁目に移し、大坂で最も繁昌した私塾へと発展させた。

所在地:大阪府大阪市西区土佐堀1丁目(シェル石油肥後橋SS横)

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雙松岡塾跡の碑

大阪市福島区福島1丁目、地方合同庁舎前の田蓑橋詰に建っている「雙松岡」の石碑。雙松岡学舎は、松本奎堂(けいどう)が、1861年(文久元年)昌平黌の同学、松林廉之助、岡千仞らと創設した。(塾の名は松本・松岡の2人の松と岡から採っている) 尊皇攘夷を鼓吹し、倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、翌年の文久2年、わずか半年で閉鎖されている。碑は1943年(昭和18年)の建立。松本奎堂:1832年(天保2年)三河・刈谷に生まれる。昌平黌に学び、1859年(安政6年)名古屋石町で塾を開いた後、大坂に移った。 1863年(文久3年)8月、孝明天皇大和行幸の詔が出たのを機に藤本鉄石、吉村寅太郎らと天誅組を組織して総裁となり、侍従中山忠光を奉じて出京したが、 政変によって形勢急変し、行幸は中止となった。
紀伊、彦根藩兵により追討され、十津川郷に南下し郷士と農兵の参加を募った。しかし諸藩兵の攻撃をうけ、吉野郡鷲家で自刃した。享年33歳であった。

所在地:大阪府大阪市福島区福島1丁目1-60(大阪中之島合同庁舎南東角)

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淀川改修紀功碑

淀川の洪水は古代からたびたびくり返され、そのつど大きな被害をうけていた。なかでも明治18年の氾濫は、ようやく近代的発展をとげようとする大阪とその周辺に、甚大な被害をもたらした。そのため淀川改修工事が急がれ、明治29年測量に着手、途中、日露戦争をはさみながらの困難な事業も同42年完了した。碑面には、その間の経緯を詳しく刻している。

所在地:大阪府大阪市北区長柄東三丁目3

国土交通省淀川河川事務所毛馬出張所前市バス「長柄東」下車北約300m

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2017年05月17日

摂津県・豊崎県県庁所在地跡

大阪府の起源は明治元年で、翌明治2年1月20日、大阪府の一部を割いて摂津県がおかれ、摂津の国八郡(住吉・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢・川辺)を管轄した。その仮庁舎として崇禅寺の建物の一つがあてられたようである。明治2年5月に豊崎県と改名されたが、その後も区域の変更が繰り返された。
所在地:大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目27番崇禅寺内

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2017年05月14日

薩摩藩蔵屋敷跡

大阪市西区土佐堀2丁目、三井倉庫の前にある「薩摩藩蔵屋敷跡」の碑。1868年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いに際して、この蔵屋敷(上屋敷)と、江戸堀の中屋敷、立売堀の下屋敷の3屋敷の引渡しを幕府から要求され、これを拒絶したため陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞き、自ら火をはなった。この「薩摩蔵屋敷跡」は大阪市顕彰史跡に指定されている。

所在地:大阪府大阪市西区土佐堀2丁目4(三井倉庫の前)

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2017年05月09日

大阪府立盲学校発祥の地

大正3年(1914年)視覚障害者のために、吉田多市と志岐与市が大阪訓盲院をこの地で設立した。その後、西区内で2度の移転後、大正14年に天王寺区大道に校舎を新築して移転し、(社)天王寺盲学校と改称した。昭和13年に住吉区に移転し、現在に至る。2008年名称が府立視覚支援学校となった。
所在地:大阪府大阪市西区北堀江3-5

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天満の子守唄碑

かつて、この辺りには天満青物市場があり、そこで働いていた子守娘たちが歌ったものです。「ねんねころいち満の市で大根そろえて舟に積む舟に積んだらいやる鴎とりたや竹ほしや竹がほしけりゃ竹やへござれ竹はゆらゆら由良之助」といった調子で、木津村と難波村が歌詞に登場しますが、これは木津村や難波村の女性がよく働きに来ていたから、といいます。のちに木津村と難波村の住民は、天満市場のような青物市場を開きたいと懇願して、地元で木津市場を開きました。大坂・天満の民謡として歌い継がれ、近畿一円から四国、中国地方まで広まったといわれています。

所在地:大阪府大阪市北区天満3(南天満公園内)

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将棊島(しょうぎじま)跡碑

淀川の水が寝屋川、鯰江川に逆流して水害を引き起すので、それを防ぐために、河川の合流点の網島から天満橋を越えて236 間(約430 メートル)余りまで築かれた隔流堤です。島とついていますが、実際には岸から続いた半島です。

所在地:大阪府大阪市北区天満3(南天満公園内)

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2017年04月30日

天満青物市場跡の碑

堂島米市場、雑魚場魚市場と並ぶ大阪三大市場として、多くの人が往来し、賑わいを見せた。「摂津名所図会」にも、「日々、朝毎に多くの人が集りて菜蔬を賈う」とあり、ここで大阪近郊の品々と共に水運を利湯して運ばれ、「天下の台所」を実感させてくれる。

所在地:大阪府大阪市北区天満3丁目(南天満公園)

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2017年04月01日

本の紹介しますね。

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タグ:書籍
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2017年03月26日

宮水

宮水とは、今の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出する、日本酒つくりに適していると江戸時代後期から知られている水。灘五郷の酒造に欠かせない名水として知られる。 硬度が高く、リン含有量が多く、鉄分が少ない特徴がある。宮水を守るため、水質保全活動が以前からなされている。

○由来
天保8年(1837年)、一説には天保11年(1840年)、桜正宗の六代目蔵元であった山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が摂津国西宮(現兵庫県西宮市)で発見したとされる。山邑太左衛門は西宮と魚崎(現神戸市東灘区)で造り酒屋を営んでいたが、双方で造る酒は、他の工程をすべて同じにしても味が異なった。西宮で造る酒の良質な味の原因について、彼は『同地にある梅ノ木蔵の「梅ノ木井戸」の水にある』と結論した。これを以て「宮水の発見」としている。当初、「西宮の水」と言っていたが、やがて略されて「宮水」と呼ばれるようになった。以後、灘の酒蔵は競ってこの地の水を使うようになったが、井戸を掘っても同じ水脈に当たらない酒蔵もあった。そのため、造り酒屋でなくても井戸を掘れば同じ味の水が出る地域の農民らが、井戸を掘り、そういう酒蔵に宮水を売るようにもなった。西宮に特有のこの商売をさして「水屋」といった。

○成分
梅ノ木井戸の近くを流れる夙川の伏流水と、六甲山の花崗岩を通り抜けてきた水に、塩分を含んだ海水が微妙にまじりあって湧いた水と考えられる。水質は、ドイツ硬度で8°dH前後の中硬水で、軟水の多い近畿地方では珍しい(日本国内では関東地方の水に近い硬度である)。宮水に多く含まれるミネラル成分(カルシウム・カリウム)およびリンは、麹や酵母の栄養分となり酵素の作用を促進する。また酒造りの水には少量の塩分の含有が好まれるが、宮水は塩分も多い。逆に酒造りに害となる鉄分は、宮水は0.001ppmと少ない(鉄分は、酒の色や味の仕上がりを損なう。一般的に日本の水の鉄分含有量はだいたい0.02ppm程度)。このように宮水が酒造りには理想的な有効成分を含むことは多くの点から説明できるが、現代の科学を以てしてもなおも、なぜ宮水がそれほどまでに酒造に好適であったのか解明されていない部分も残っている。

○歴史
幕末以後、昭和時代初期まで宮水は「播州米に宮水、丹波杜氏に六甲颪、男酒の灘の生一本」の名声をほしいままにするのに欠かせない原料となった。しかし昭和時代中期以降、高度経済成長の時代を迎え、西宮は阪神工業地帯の真っ只中に置かれ、宮水への汚染が危惧されることとなった。水質の汚濁が、この時期の何回かの調査でわかっている。酒郷組合等は宮水保全のための努力は継続して行っている。組合加盟蔵の中には大メーカーも含まれており行政や企業に対しても同等の発言力を有していることから、行政や企業もそれなりの対応を迫られるのである。例えば、阪神高速3号神戸線の橋脚は宮水地帯付近では間隔が極めて広く取られており、宮水の保全と産業発展の両立が図られている。その結果、阪神工業地帯の真ん中に位置するにもかかわらず保全状態としては奇跡的な状態が保たれ、環境省の名水百選に選ばれている。

所在地:兵庫県西宮市久保町〜石在町周辺

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2017年01月29日

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タグ:書籍
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2016年12月03日

ムクノキ大明神

ここは江戸時代、高槻城三の丸の一角で、立派なムクノキがそびえていました。来た大手門から南へと続く大手道が折れる場所にあたり、その姿は「高槻城絵図」に象徴的に描かれています。当時は年1回、庶民が参加する盆踊りが城内で行われ、その接待所はムクノキ周辺されています。当時のムクノキは残っていませんが、現在は「ムクノキ大明神」として祠が建てられています。

所在地:大阪府高槻市大手町3番46号(高槻市商工会議所の前)

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2016年11月27日

四條畷の戦い

四條畷の戦いは、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦い。また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。
○背景
1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。

○経過
足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。




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