2017年12月06日

三義塚

1932年1月28日、日中両軍が衝突した上海事変が起きた。事変の最中、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部に在籍していた西村真琴と、中国の文豪、魯との間に、1羽のハトを介した友情が生まれた。西村は事変が起きて間もない2月6日、戦いで負傷した人たちを治療する医療団を率いて、上海に渡った。市郊外の三義里で飢えて飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけて、日本に連れ帰って育てた。三義に二世が生まれたら、西村は日中友好のあかしとして、上海に送るつもりだった。残念ながら、三義は豊中市の自宅で、イタチの襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等は親善あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添えて魯迅に送った。魯迅は感激し、漢詩「三義塔に題す」を作って西村に贈った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んである。「荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味だ。1981年に兪啓慧・中国芸術学院教授が魯迅生誕100年を記念して、木版画集「度盡劫波兄弟在」を制作した。2002年には、豊中市立中央公民館の敷地に、豊中市日中友好協会が中心となり、石碑「三義塚」を設置した。戦火の下での友情は、今も語り継がれている。

所在地:〒561-0802大阪府豊中市曽根東町3丁目6

[ここに地図が表示されます]


J0010615.jpg



posted by かずぼん at 19:46| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

井原西鶴文学碑

大阪市中央区本町通り、本町橋の近く「東横堀川」に平行した道路の植え込みの中に建てられている井原西鶴文学碑。『日本永代蔵』の一説が彫られている。この碑は1972年(昭和47年)大坂北浜船場ライオンズクラブが建てている。 周りは雑草が茫々で、石碑の傍には近づけない。

所在地:大阪市中央区本町橋3番(目安はシティプラザ大阪というホテルの前の公園の植え込み内)

[ここに地図が表示されます]


J0010475.jpg

J0010474.jpg



posted by かずぼん at 19:55| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月03日

梅田停車場跡

大阪市北区の梅三小路内にある碑。1874年、大阪駅と神戸駅とを結ぶ鉄道と共に開業した。当時の駅舎はゴシック風の赤煉瓦造り2階建て。現在の大阪駅よりも200mほど西に位置(昔の大阪中央郵便局付近)していた。周辺には田圃が広がっていた。開業当初、「梅田駅」「梅田ステーション」「梅田すてんしょ」などと呼ばれていた。1901年、現在地へ移転した。当駅には、官営鉄道(国鉄)、山陽鉄道(山陽本線)、阪鶴鉄道(福知山線)、西成鉄道(大阪環状線・桜島線)、関西鉄道(関西本線・大阪環状線など)、南海鉄道(南海本線)という5つの私鉄の列車が乗り入れていた。1906年、鉄道国有法に基づき主要私鉄が国有化。

所在地:大阪府大阪市北区梅田3丁目2-136

J0010619.jpg

J0010618.jpg



posted by かずぼん at 19:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

桜井谷の須恵器窯跡群

桜井谷は豊中市北部に位置する幅約500メートルの大きな谷で、この谷の両岸約3キロメートルにわたって、古墳時代の大きな須恵器窯跡群がある。北緑丘団地や西緑丘の住宅地造成によって、ほとんどの窯跡は消滅した。しかし、最後に造成された府立豊島高校西側の北緑丘2丁目の団地開発で見つかった2基の窯跡は、豊中市の文化財に指定され、緑地帯として保存された。豊島高校前バス停から西へ約200mにある2-19・2-24窯跡と命名された2基の窯跡は、桜井谷須恵器窯跡群内でも北部の標高65m前後の段丘上に位置する。構造は半地下式で、天井部を粘土により架設している。焚口から燃焼部・焼成部そして煙道部へと、上方に傾斜しながら幅を狭めている。保存状態の良い2-24窯跡は、焚口から後端まで9.5m、最大幅2mを測り、焚口の前面には、幅14mの範囲に焼けた須恵器と灰を取り出した灰原が分布している。灰原には焼成に失敗したり、割れた須恵器の破片が多く残されており、こうした須恵器から、この窯の操業時期が古墳時代の後期から末期にかけてのものであることがわかる。

所在地:大阪府豊中市北緑丘2

[ここに地図が表示されます]


DSCN2821.JPG

J0010596.jpg

J0010597.jpg



ラベル:豊中市 大阪府
posted by かずぼん at 17:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

八軒家浜船着場跡の近くにある石畳の階段

この付近は、古くは渡辺の津と呼ばれる船着場で、熊野街道の起点でもあった。平安時代中期から鎌倉時代にかけては「蟻の熊野詣」といわれ、人々はここで上陸して熊野に向かったといわれる。さらに江戸時代には、八軒家浜と呼ばれ、三十石船がつき、人の往来だけでなく、交易の場としてもにぎわった。

所在地:大阪府大阪市中央区石町1丁目

[ここに地図が表示されます]


J0010589.jpg



posted by かずぼん at 16:23| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三橋楼跡

江戸時代、料亭「三橋楼」が開業。高台に位置し、「天神橋」「天満橋」「難波橋」または「京橋」「天満橋」「天神橋」の3つの橋を眺望することができたため、三橋楼と命名した。1864年、新選組の近藤勇氏による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。1868年、大久保利通氏が明治天皇に謁見したことを祝うため、小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所篤を招き、祝宴をあげる。1874年、井上馨氏、伊藤博文氏の働きかけにより、大久保利通氏、木戸孝允氏、板垣退助氏らによる「大阪会議」が行われ、三橋楼も開催地の一つとなった。 木戸孝允氏は、「囲碁会」を開催。大久保利通氏、五代友厚氏、税所篤氏(堺県知事)、内海忠勝氏(大阪府参事)、渡邊昇氏(大阪府知事)、伊藤博文氏らが参加。

所在地:大阪市中央区石町1丁目1-11天満橋ニュースカイハイツ前

[ここに地図が表示されます]


J0010592.jpg

J0010590.jpg



posted by かずぼん at 16:21| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

大阪能楽殿跡

1916年、能楽師・手塚(大西)亮太郎らが中心となって起工。1919年、大阪能楽殿は、日本最大の規模として完成した。建設には、関西財界人を代表する住友吉左衛門友純、野村徳七、伊藤忠兵衛らが支援した。住友家は建設用地の提供、建設費用を募る労を執るなどの支援を行った。能楽殿の敷地は約737坪の2階建。平見所(客席の桟敷)145個所、貴賓室、特別室、椅子見所が備わっていた。1945年、大阪大空襲により焼失した。

所在地:大阪市天王寺区堂ケ芝2丁目16-24(天王寺保育所前)

[ここに地図が表示されます]


J0010560.jpg

J0010562.jpg



posted by かずぼん at 17:17| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝藤原家隆墓

藤原家隆(1158年〜1237年)は、藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で、79歳の時に官を辞して浄春寺の地に隠棲した。その翌年の春の彼岸に高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ直ぐに落髪して仏性と号し、その4月9日に消えるように一生を終えた。伝藤原家隆墓は、家隆の墓といわれ、その傍らには、御影石にこの歌が夕日とともに刻まれた歌碑がある。夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」からきている。夕陽丘の地名の由来である藤原家隆の歌碑があり、和歌に親しんでいる者にとっては重要なスポットである。市民の手によって維持保全されており、地域に親しまれている歴史・文化的資源である。

所在地:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5番

J0010718.jpg

J0010719.jpg



posted by かずぼん at 17:09| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

住吉高灯籠

わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。
所在地:大阪府大阪市住之江区浜口西一丁目
最寄駅:市バス「住吉公園」下車北すぐ

[ここに地図が表示されます]


DSCN2367.JPG

DSCN2370.JPG

DSCN2369.JPG

DSCN2368.JPG



posted by かずぼん at 14:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

住吉公園

住吉公園は大阪府大阪市住之江区浜口東1丁目にある大阪府営公園。
○概要
住吉公園という名称だが、現在の住所表示では住之江区になる。もともとは住吉区に属していたが、1974年の大阪市の区の変更に伴い、住吉区から住之江区が分区した時、住吉公園は住之江区地域に含まれた。住吉公園は、現在は市民公園で、花壇や池、遊戯施設、コートなどが並ぶ。しかし元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時〜16時。今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

○歴史
大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。開設当初は現在より広い面積を有していたが、1884年に阪堺鉄道(現在の南海本線)が園内の東部を縦断する形で敷設された。さらに大正時代には国道26号(当時の呼称は国道16号)の建設工事に伴い、同道路が園内を縦断することになった。これに伴い1918年-1924年にかけて、国道より西側を廃止するなどの縮小・整備が行われて現在の形になった。住吉公園縮小の代替として、当地から1.5キロほど西に住之江公園が建設されている。

○交通
南海本線 住吉大社駅西側すぐ。
阪堺電気軌道 住吉鳥居前・住吉各停留所下車。
大阪市営バス 住吉公園停留所下車。
国道26号沿い。

○所在地
大阪市住之江区浜口東1丁目

DSCN2362.JPG

DSCN2363.JPG

DSCN2371.JPG

DSCN2375.JPG

DSCN2372.JPG

DSCN2364.JPG

DSCN2374.JPG

DSCN2373.JPG



posted by かずぼん at 12:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芭蕉の句碑(住吉公園)

「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。その翌日の句席で「升買て......」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

○所在地
〒559-0002大阪府大阪市住之江区浜口東1-1-13

DSCN2366.JPG

DSCN2365.JPG



posted by かずぼん at 12:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経塚

晴明丘公園にある経塚。この石碑は元は、現在北畠顕家の墓となっている「将軍塚」の近くの塚に建てられていたが、道路工事などで転々とし、昭和の初期ごろから北畠公園の北の民家の前庭に移されていた。1995年(平成7年)に、現在地に移転。この塚の由来については、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、塚に納めたとする説と、阿倍王子神社の縁起書である「阿倍権現記」に826年(天長3年)の夏、疫病流行に際し、弘法大師が、王子神社に入り一千部の薬師経を書写し、塚に納めたとする二つの説がある。いずれにしてもこれらの塚は現在地とは何の関係もなく、石碑のみが由緒あるものらしい。

所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町、晴明丘公園内
最寄駅:市バス「北畠公園前」下車、信号を渡り西へ、阪堺線手前「もと熊野街道」を北へすぐ、公園の入り口にあり

[ここに地図が表示されます]


DSCN2414.JPG

DSCN2415.JPG

DSCN2412.JPG



posted by かずぼん at 12:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もと熊野街道

平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて熊野信仰が盛んになり、王侯貫族をはじめ庶民に至るまで熊野詣をした。それは「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」と形容されるほどであった。京から淀川を船で下り、窪津(くぼつ)(八軒家)に上陸した人々は、上町台地を縦断、途中点々と所在する王子と呼ぶ遥拝所兼休憩所をたどりながら、熊野三山に到った。阿倍王子神社は阿倍野王子の跡であり、市内唯一残るものである。前の道は熊野街道で、この付近と万代池西側や遠里小野町付近などは、旧街道の面影をのこしており、歴史の顕彰が行なわれている。

所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9阿倍王子神社前
最寄駅:堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約200m

[ここに地図が表示されます]


DSCN2418.JPG



posted by かずぼん at 11:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

安倍晴明生誕伝承地

安倍晴明(921〜1005)は、平安時代の高名な天文博士・陰陽師である。記録上には天徳4年(960)天文得業生として現れ、寛弘元年(1004)左京権太夫として名を連ねる。多くの事柄を予言するなど、その伝承は『今昔物語』、『大鏡』などで流布され、狐と人間の婚姻説話で知られる。当社は晴明の子孫という保田家により、寛弘年間(1004〜1012)に創祀されたという。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5安倍晴明神社
最寄り駅:阪堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約100m

[ここに地図が表示されます]


DSCN2422.JPG



posted by かずぼん at 10:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本の紹介しますね。

本の紹介しますね。
凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩 広域編 -
凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩 広域編 - 凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩 -
凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩 -

大阪「高低差」地形散歩 凹凸を楽しむ [ 新之介 ] - 楽天ブックス
大阪「高低差」地形散歩 凹凸を楽しむ [ 新之介 ] - 楽天ブックス凹凸を楽しむ大阪「高低差」地形散歩 広域編 - ぐるぐる王国DS 楽天市場店
凹凸を楽しむ大阪「高低差」地形散歩 広域編 - ぐるぐる王国DS 楽天市場店



ラベル:書籍
posted by かずぼん at 09:07| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

我孫子鋳物師ゆかりの地

中世後期には、当地に鋳物師集団が居住し活躍していた。最近の発掘調査によると、14〜15世紀の銅・鉄製品鋳造用の炉や鋳型が発掘されている。平安時代末以降、河内丹南には有力鋳物師集団の存在が知られている。当地の鋳物師はこの河内丹南の集団を源流とするかどうか不明であるが、室町時代宝徳3年(1451)の河内鋳物師に関係する文書には、我孫子・苅田・庭井などの鋳物師名のあることから、密接なつながりがうかがえる。天文年間(1532〜1555)には織田信長の庇護もあり、河内鋳物師集団をしのぐ勢力をもっていた。
所在地:大阪府大阪市住吉区山之内元町3山之内元町公園
最寄駅:JR「杉本町」下車北約400m

[ここに地図が表示されます]


J0010515.jpg



posted by かずぼん at 22:42| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一休禅師牀菜庵跡

一休和尚(1394〜1481)が、晩年仮棲したところである。一休は後小松天皇の落胤と伝え、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺など移り住んだ。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。一休は文明10年(1478)には京都田辺酬恩庵へと去った。庵跡は明治初年まで、それらしき門跡や竹やぶが残っていたという。
所在地:大阪府大阪市住吉区上住吉二丁目6上住吉公園
最寄駅:南海電鉄「住吉東」下車南約300m

[ここに地図が表示されます]


J0010528.jpg

J0010529.jpg



posted by かずぼん at 22:40| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

依網池跡

この依網池は約1平方キロメートルにも及ぶ大池で、長く灌漑に利用されていた。しかし宝永元年(1704)大和川の付け替えで、池は大和川により分断され縮小し、現在では全く姿を消している。
所在地:大阪府大阪市住吉区庭井二丁目18
交通:市バス「よさみ神社前」下車南約200m

J0010504.jpg



posted by かずぼん at 22:34| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

泊園書院跡

儒学者藤沢東がい(ふじさわとうがい)が文政8年(1825)、大阪に出て泊園書院を設立。当時、民衆に漢学を教えた私塾であった。東がいの別号が「泊園」。「泊園」は私利にとらわれないという意味である。東がいは6歳でたいていの漢字を読んだ秀才で、七絃琴の名手。風雅を愛し、泊園の名のとおりの生涯を送ったという。この精神は南岳、黄鵠、黄坡と4代140年間守られた。現在石碑が立つ場所に塾が移されたのは南岳の頃で、明治9年(1876)。
南岳は一時、途絶えていた泊園書院を明治6年(1873)に再興。やがて最盛期を迎え、塾生は100名に達したという。江戸から続いた泊園書院は、昭和24年(1949)、黄坡の死によって幕を閉じた。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されている。また一族から昭和の流行作家、藤沢桓夫や石濱桓夫が出ている。

所在地:大阪府大阪市中央区淡路町1-5

J0010478.jpg



posted by かずぼん at 13:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天野屋利兵衛の碑

碑は昭和14(1939)年に建立。横幅は4m、高さは2m近くもある。天野屋利兵衛の屋敷が現地付近にあったという伝承に基づいて建てられたといわれる。利兵衛は、赤穂藩の家老大石良雄から吉良邸討ち入りの武具の調達を頼まれるが、武具を作らせた人間の密告により捕らえられる。依頼書の名を白状せよと奉行所で拷問を受けるが、頑として口を割らない。この時に利兵衛が言ったという「天野屋利兵衛は男でござる」の名せりふは「忠臣蔵」でも見せ場の1つにになっている。利兵衛の義心に奉行は資材を減じ、浪速の地追放の判決を下す。こういったエピソードから碑には「義侠」の文字が刻まれている。元禄時代に、天野屋利兵衛が存在したのは確かだが、実在は不明である。

所在地:大阪府大阪市中央区本町橋3番

J0010472.jpg

J0010473.jpg



posted by かずぼん at 13:00| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする