2017年10月01日

住吉高灯籠

わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。
所在地:大阪府大阪市住之江区浜口西一丁目
最寄駅:市バス「住吉公園」下車北すぐ

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住吉公園

住吉公園は大阪府大阪市住之江区浜口東1丁目にある大阪府営公園。
○概要
住吉公園という名称だが、現在の住所表示では住之江区になる。もともとは住吉区に属していたが、1974年の大阪市の区の変更に伴い、住吉区から住之江区が分区した時、住吉公園は住之江区地域に含まれた。住吉公園は、現在は市民公園で、花壇や池、遊戯施設、コートなどが並ぶ。しかし元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時〜16時。今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

○歴史
大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。開設当初は現在より広い面積を有していたが、1884年に阪堺鉄道(現在の南海本線)が園内の東部を縦断する形で敷設された。さらに大正時代には国道26号(当時の呼称は国道16号)の建設工事に伴い、同道路が園内を縦断することになった。これに伴い1918年-1924年にかけて、国道より西側を廃止するなどの縮小・整備が行われて現在の形になった。住吉公園縮小の代替として、当地から1.5キロほど西に住之江公園が建設されている。

○交通
南海本線 住吉大社駅西側すぐ。
阪堺電気軌道 住吉鳥居前・住吉各停留所下車。
大阪市営バス 住吉公園停留所下車。
国道26号沿い。

○所在地
大阪市住之江区浜口東1丁目

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芭蕉の句碑(住吉公園)

「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。その翌日の句席で「升買て......」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

○所在地
〒559-0002大阪府大阪市住之江区浜口東1-1-13

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経塚

晴明丘公園にある経塚。この石碑は元は、現在北畠顕家の墓となっている「将軍塚」の近くの塚に建てられていたが、道路工事などで転々とし、昭和の初期ごろから北畠公園の北の民家の前庭に移されていた。1995年(平成7年)に、現在地に移転。この塚の由来については、聖徳太子が諸経の文字を、一字ずつ一石に書いて、塚に納めたとする説と、阿倍王子神社の縁起書である「阿倍権現記」に826年(天長3年)の夏、疫病流行に際し、弘法大師が、王子神社に入り一千部の薬師経を書写し、塚に納めたとする二つの説がある。いずれにしてもこれらの塚は現在地とは何の関係もなく、石碑のみが由緒あるものらしい。

所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町、晴明丘公園内
最寄駅:市バス「北畠公園前」下車、信号を渡り西へ、阪堺線手前「もと熊野街道」を北へすぐ、公園の入り口にあり

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もと熊野街道

平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて熊野信仰が盛んになり、王侯貫族をはじめ庶民に至るまで熊野詣をした。それは「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」と形容されるほどであった。京から淀川を船で下り、窪津(くぼつ)(八軒家)に上陸した人々は、上町台地を縦断、途中点々と所在する王子と呼ぶ遥拝所兼休憩所をたどりながら、熊野三山に到った。阿倍王子神社は阿倍野王子の跡であり、市内唯一残るものである。前の道は熊野街道で、この付近と万代池西側や遠里小野町付近などは、旧街道の面影をのこしており、歴史の顕彰が行なわれている。

所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9阿倍王子神社前
最寄駅:堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約200m

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安倍晴明生誕伝承地

安倍晴明(921〜1005)は、平安時代の高名な天文博士・陰陽師である。記録上には天徳4年(960)天文得業生として現れ、寛弘元年(1004)左京権太夫として名を連ねる。多くの事柄を予言するなど、その伝承は『今昔物語』、『大鏡』などで流布され、狐と人間の婚姻説話で知られる。当社は晴明の子孫という保田家により、寛弘年間(1004〜1012)に創祀されたという。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5安倍晴明神社
最寄り駅:阪堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約100m

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ラベル:書籍
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2017年09月22日

我孫子鋳物師ゆかりの地

中世後期には、当地に鋳物師集団が居住し活躍していた。最近の発掘調査によると、14〜15世紀の銅・鉄製品鋳造用の炉や鋳型が発掘されている。平安時代末以降、河内丹南には有力鋳物師集団の存在が知られている。当地の鋳物師はこの河内丹南の集団を源流とするかどうか不明であるが、室町時代宝徳3年(1451)の河内鋳物師に関係する文書には、我孫子・苅田・庭井などの鋳物師名のあることから、密接なつながりがうかがえる。天文年間(1532〜1555)には織田信長の庇護もあり、河内鋳物師集団をしのぐ勢力をもっていた。
所在地:大阪府大阪市住吉区山之内元町3山之内元町公園
最寄駅:JR「杉本町」下車北約400m

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一休禅師牀菜庵跡

一休和尚(1394〜1481)が、晩年仮棲したところである。一休は後小松天皇の落胤と伝え、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺など移り住んだ。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。一休は文明10年(1478)には京都田辺酬恩庵へと去った。庵跡は明治初年まで、それらしき門跡や竹やぶが残っていたという。
所在地:大阪府大阪市住吉区上住吉二丁目6上住吉公園
最寄駅:南海電鉄「住吉東」下車南約300m

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依網池跡

この依網池は約1平方キロメートルにも及ぶ大池で、長く灌漑に利用されていた。しかし宝永元年(1704)大和川の付け替えで、池は大和川により分断され縮小し、現在では全く姿を消している。
所在地:大阪府大阪市住吉区庭井二丁目18
交通:市バス「よさみ神社前」下車南約200m

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2017年09月10日

泊園書院跡

儒学者藤沢東がい(ふじさわとうがい)が文政8年(1825)、大阪に出て泊園書院を設立。当時、民衆に漢学を教えた私塾であった。東がいの別号が「泊園」。「泊園」は私利にとらわれないという意味である。東がいは6歳でたいていの漢字を読んだ秀才で、七絃琴の名手。風雅を愛し、泊園の名のとおりの生涯を送ったという。この精神は南岳、黄鵠、黄坡と4代140年間守られた。現在石碑が立つ場所に塾が移されたのは南岳の頃で、明治9年(1876)。
南岳は一時、途絶えていた泊園書院を明治6年(1873)に再興。やがて最盛期を迎え、塾生は100名に達したという。江戸から続いた泊園書院は、昭和24年(1949)、黄坡の死によって幕を閉じた。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されている。また一族から昭和の流行作家、藤沢桓夫や石濱桓夫が出ている。

所在地:大阪府大阪市中央区淡路町1-5

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天野屋利兵衛の碑

碑は昭和14(1939)年に建立。横幅は4m、高さは2m近くもある。天野屋利兵衛の屋敷が現地付近にあったという伝承に基づいて建てられたといわれる。利兵衛は、赤穂藩の家老大石良雄から吉良邸討ち入りの武具の調達を頼まれるが、武具を作らせた人間の密告により捕らえられる。依頼書の名を白状せよと奉行所で拷問を受けるが、頑として口を割らない。この時に利兵衛が言ったという「天野屋利兵衛は男でござる」の名せりふは「忠臣蔵」でも見せ場の1つにになっている。利兵衛の義心に奉行は資材を減じ、浪速の地追放の判決を下す。こういったエピソードから碑には「義侠」の文字が刻まれている。元禄時代に、天野屋利兵衛が存在したのは確かだが、実在は不明である。

所在地:大阪府大阪市中央区本町橋3番

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大阪府立貿易専門学校

大阪府立貿易専門学校は、かつて大阪府大阪市にあった、大阪府立の専修学校。2年制の専門課程を設置し、貿易実務や国際ビジネスについて学ぶことを目的としていた。英語表記は、Osaka College Of Foreign TradeでOCFTと略されていた。

○概要
1948年に1年制の各種学校「大阪高等貿易講習所」として、大阪市東区橋詰町(現在の大阪市中央区本町橋)で創立したことが、学校の始まりとなっている。その後2年制の専修学校へと改編された。公立の貿易実務分野の専修学校は、当時日本で唯一となっていた。しかし大阪府の財政難に伴い、2001年に廃校の方針が示された。学生や関係者らによる廃校反対運動も起こったが、2003年度からの新規学生募集を停止し、最後の卒業生を出した2004年3月に廃校された。

○沿革
1948年5月1日-大阪高等貿易講習所として、大阪市東区橋詰町で創立。1年制の各種学校として発足。
1967年4月1日-大阪府立貿易専門学校と改称。2年制の専門学校となる。
1976年4月1日-学校教育法の改正により、専門課程を設置する2年制の専修学校になる。
1985年4月1日-大阪市天王寺区夕陽丘町へ移転。
1995年4月1日-大阪市住吉区帝塚山東2丁目へ移転。
1998年12月25日-住吉区帝塚山東2丁目、最終所在地の校舎に移転。
2001年-大阪府議会9月議会で廃校の方針が決定。
2003年-この年から新入生の募集を停止。
2004年-廃校。

○最終所在地
大阪市住吉区帝塚山東2丁目1番41号
最終所在地の校地は、旧制大阪府女子専門学校→新制大阪女子大学(1924年-1976年9月)、大阪府立看護短期大学(1978年-1994年)、 大阪府警住吉警察署仮庁舎(1994年-1998年)としても使用されてきた。跡地は2000年代後半まで廃校当時のまま残っていたが、2010年には旧校舎は取り壊され更地になった。2011年から跡地に老人ホームが建設され、2012年7月に竣工した。

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英照皇太后・昭憲皇太后行啓の所

英照皇太后は孝明天皇の皇后、昭憲皇太后は明治天皇の皇后である。皇太后らが来られた記念碑。裏側には「昭和15年4月大阪府」と刻まれている。

所在地:大阪府大阪市中央区本町橋2番

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2017年08月27日

旧浮瀬亭跡

浮瀬亭は清水寺の北にあった料亭で、江戸時代の名所案内書『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』にも掲載されており、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場している。松尾芭蕉のほか、与謝蕪村、太田南畝(蜀山人)、滝沢馬琴などの有名な文人たちが訪れている。芭蕉が訪れた頃は「晴々亭」と呼ばれていたが、「浮瀬亭」と呼ばれるようになったのは、あわび貝でつくった「浮ぶ瀬」という大盃(7合5勺も入る)をはじめ、種々の盃を秘蔵しており、これを飲み干した人は名誉として「暢酣帳(ちょうかんちょう)」に名前を記載したところから、その奇盃が有名になり、料亭の名前として呼ばれるようになった。この料亭は1887年(明治20年)頃売りに出され個人の別荘となったが、変遷を得て現在では大阪星光学園の構内の一部になっている。その後建物は無くなったが、1800年(寛政12年)大坂の俳人茅渟奇淵(ちぬのきえん)が建立した松尾芭蕉の句碑(松風碑)は残されており、学園では1982年(昭和57年)に、この「松風碑」を含め、浮瀬亭史跡を整備。併せ、「蕪村200年忌追善」行事として、蕪村の句碑を建立されている。これらの史跡は大阪星光学園に申し込めば拝観することが出来るが、訪問する際には授業の邪魔にならないためにもあらかじめ、電話等で予約をしておく必要がある。

所在地:大阪市天王寺区伶人町
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、南西出口を南へ150M

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ラグビーの記念碑

全国高校ラグビー大会80回記念モニュメントが阪急宝塚線豊中駅駅前のきたしん豊中広場に。第1回大会は大正7(1918)年に「日本フットボール優勝大会」として豊中グランドで開催され、第5回大会まで行われた。台座には、大会の歴史が刻まれている。

所在地:大阪府豊中市本町1丁目

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ラベル:大阪府 豊中市
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2017年08月20日

伝王仁墓

大阪府枚方市藤阪にある王仁の墓所は、江戸時代の1731年(享保16年)に設立されたものである。設立までの経緯は次の通りである。藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある。1616年(元和2年)、禁野村和田寺の道俊は『王仁墳廟来朝記』でオニ墓は王仁墓の訛ったものと主張した。1731年(享保16年)、京都の儒学者並河誠所が道俊説により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立した。金英達は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている。1827年(文政10年)、枚方招提村の家村孫右衛門が王仁博士を顕彰するため、有栖川宮の筆になる「博士王仁墳」の碑を建立。明治時代になると王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた博士として王仁が顕彰されるようになり、1894年(明治27年)に墓域拡張工事が行われ、1899年(明治32年)には仁徳天皇1500年祭の付随して王仁墳墓祭典が行われた。昭和時代になると「内鮮一体」を標榜する朝鮮人皇民化教育政策に利用されるようになり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成、1930年に王仁神社建設の地鎮祭、昭和12年(1937年)になって北河内郡菅原村村長が大阪府に史跡指定を申請し、翌1938年(昭和13年)、大阪府が史跡13号に指定した。1940年、四宮憲章、井上哲次郎らによる王仁博士顕彰会が東京の上野公園に「博士王仁碑」を建立された。1942年には大阪府協和会が王仁神社の建設を決定したが戦争のため計画中断した。戦後は「日韓友好親善運動」に利用され、1984年以降、王仁祭が開催されるようになり、1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・祈念碑などが建設された。

所在地:大阪府枚方市藤阪東町2

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ラベル:大阪府 枚方市
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2017年08月15日

石橋村高札場跡

「高札」とは、立て札ともいい、江戸時代 法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げらた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものでした。
旧石橋村の高札場跡
ここは、京都と山陽地方とを結ぶ「西国街道」、大阪と池田・能勢方面とを結ぶ「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」)が交わる場所です。かつて、多くの人々や物資が行き来したこの辻には、幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げた高札場 がありました。江戸時代の石橋村は麻田藩青木家(一万石)の領地になっていました。この時代の戸籍台帳である『宗門御改帳』などによると、元禄三年(690)に29軒1928人、幕末の文久元年(1861)には24軒104人の人々が暮らしていたようです。 江戸時代の村の様子はあまりわからないものの、次のことがうかがえる史料があります。嘉永6年(1853)の黒船(アメリカ艦隊)来航以降、幕府は初版に海岸の防備を強化するよう命じました。 同年七月、石橋村庄屋元二郎が江戸に行っていた同村の仁右衛門・徳次郎に宛てた手紙が残されており、そこには「異国船が来たと驚いている、幕府をはじめ諸藩の苦労がしのばれる。旱魃やほうき星が外国の仕業であると皆が評判している」といった内容がしたためられています。アメリカ、ロシアの相次ぐ来航という歴史を動かした幕末の動揺が、ここ石橋村にも及んでいたことがわかります。近代以降 明治22年(1889)の町村制の施行によって、石橋村は北豊島村の大字となりました。昭和10年(1935)、北豊島村は、秦野村、細河村、池田町と合併、昭和14年には市制が施行されて池田市になり、「石橋」は町名としてその名を今日に残しています。
平成22年4月池田市教育委員会


所在地:大阪府池田市石橋3丁目
石橋村高札場跡:阪急石橋駅の近くの踏切そば

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ラベル:大阪府 池田市
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渋谷中学校発祥の地

渋谷中学校は、1948年(昭和23年)に池田で2番目の新制中学校として開校しました。当時の校区は、秦野小学校校区と池田小学校校区の建石町、上池田町、城南町でした。 開校当初は、池田市立高等学校(昭和25年池田市立渋谷高等学校、現大阪府立渋谷高等学校)と同じ敷地に併置されていました。

渋谷中学校発祥の地:大阪府池田市五月丘4丁目1?1

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ラベル:大阪府 池田市
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2017年06月04日

佐伯祐三生誕の地

大阪が生んた偉大な洋画家佐伯祐三は、明治31年(1898)光徳寺に生まれた。大正12年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業し、大正13年に妻子を伴いフランスに渡り、ブラマンクやユトリロらの感化をうけながら、独自の画境をひらいた。そして数多くのパリ風景を描きつづけ、いったん帰国したが、再度フランスに渡り制作にはげみ、大きく飛躍した。しかし、病にたおれ、昭和3年わずか30歳で死去した。代表作に「ノートルダム寺院」「サンタニス寺院」「郵便配達夫」などがある。

所在地:大阪府大阪市北区中津二丁目5-4光徳寺
地下鉄御堂筋線「中津」下車北約200m

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